見ているものと見られているものは一つの同じもの。
思考を観察していると、今ここの現れとは直接関係ない思考が突如現れ出てくることがよくある。
しかもその思考はどこからやってきたのか皆目見当がつかない。
今まで何もなかったのに何の前触れもなくいきなり現れ出でたのだから、どう考えても「ない」ところからやってきたとしか思えない。
そして知らぬ間にいつの間にか別の思考に変化している。
前の思考は知らぬ間にどこかへ消えて、それとは違う思考がまたどこかから現れている。
「どこか」というのは探しても「ない」。
思考は「ない」ところから現れて「ない」ところへと消えている。
よく注意していると、目に見える景色や触れる物そして聞こえてくる音なども全て思考と同じく、「ない」ところから現れて「ない」ところへ消えていく。(例えば右を見た時は左の景色はなくて、左を見た時は右の景色はない)
では、それらを観察してそのことに気付いているのはいったい何なのか?
無意識だとそれを「私」と名付けるのだが、意識的に注意していると、「私」と名付ける前に形のない意識のような何かが存在している。
形がないので見たり聞いたり触ったりはできないけれど、それはただ存在している。
それは形も音も何もなくただ「ある」。
ただ「ある」それが気付いている。
ただ「ある」それが見ている。
見ているただ「ある」が名前をつける前(私という点をつける前)であるなら、見られている対象も名前をつける前のただ「ある」ということになる。
ただ「ある」がただ「ある」を見(観察して)て気付いている。
見ているものと見られているものは一つの同じものである。
ラマナ・マハルシは、
「一つの独立した実体として、真我から独立したものとして見られるもの、それは非実在である。見る者と見られるものに違いはない。見られるものを真我として見なせばそれは実在である。
「純粋な意識は分割できないものであり、部分を持たないものである。それは姿も形も持たず、内も外もない。ハートである純粋な意識は、すべてを含み、何ものもその外になく、それを離れて存在しない。それが究極の真理である。」
「真我は今ここにあり、唯一それだけだ。」
(「静寂の瞬間ーラマナ・マハルシとともにーより)
と言っている。
なんだかいっぱいあるように思えるけれど、究極ただ「ある」それしかないのです。(/・ω・)/