言葉も理解も越えている
ある日、横断歩道で信号待ちをしていたら、
背中にふわりと風がふいたような感じがした。
振り向こうとすると、中学生くらいの男の子が乗った自転車が猛スピードで走っていくのが見えた。
「あの自転車が後ろを駆け抜けていったんだ」と考えるやいなや、
いや待てよ、私は自分の背後を通っている自転車は見ていない。
自転車を見たのは背中に風を感じた後で、
その時自転車はすでに私のいるところから離れた地点を走っていた。
風を感じたことと走っていく自転車を見たことは事実だけれど、
私の背後を風を切って走っていく自転車は全く見ていない。
にもかかわらず、背中に感じた風と走っていく自転車を時間の流れの中で結び付け、「私の背後を中学生くらいの男の子が乗った自転車が猛スピードで駆け抜けていった」というストーリーを作る。
事実は
風を感じたことと、
走っていく自転車を見たことだけ。
いやそれも違う。
なんかふわりと体に触れたような感じと
目に映る自転車。
いやそれも違う。
ふわりの今ここ
自転車の今ここ
ふわりしかないので
自転車しかないので、
主体も客体もなく私はいない。
また今ここは起こっていて起こっておらず同時に違う今ここが起こるので、
それが無限(永遠)に繰り返されるので
ふわりと自転車との間には実に無限の今ここが存在している。
本当の私は無限の今ここの存在。
無限とは永遠
本当の私は永遠不滅の存在。
本当の私は生まれもしなければ死にもしない。
けれど、時間の流れの中に生きている個人の私は有限の存在。
無限と有限は同時。
生まれも死にもしない本当の私(命の本質)と生まれて死ぬ個人の私は同時に存在している。
けれど、いや だからこそ個人の私(有限)には本当の私(無限)の存在を理解することはできない。
ワァーオ!!!!
有限の言葉で無限を説明するには無理がある…