「不安」と「安心」の本質は同じ

友人が「ずっと不安やねん」と言ったので、



「寝ている時も不安なん?」と尋ねたら、



「いや、寝ている時はそうじゃない」と答えた。



「じゃあ起きている時は、ずっとずっと不安なん?」と尋ねた。



すると友人は、「いや不安になる対象にフォーカスしている時だけ不安や」と答えたので、



「寝ている時とフォーカスしてない時を除いたら、不安だと思っている時間のほうがすくないかもね。」と言った。



人(思考)にはこのように、フォーカスしていることを増大してとらえる癖があるので、フォーカスしたものに瞬時に反応するので、フォーカスしたものだけが「私」だと思い込む。



寝ている時は不安を忘れているし、くしゃみやあくびをする時そして夕食のメニューを考えている時やおいしいものを食べている時は、不安はない。



だから、実は不安な時はほんの一瞬かもしれない。



しかし、その一瞬の不安をどんどん増大させる思考の罠にまんまとはまってしまうため、「ずっと不安な私」(私=不安)というお話(ストーリー)を創り上げてしまう。



問題を抱えている私ができあがったのを見て、問題を作るのが好き(仕事)な思考は、「やったぜベービー」とばかりに喜んでいるに違いない。




思考の話はまた別の機会に譲って、さらに友人との会話を続ける。



私ー「ところで、不安と言うけど不安という名前を取ったらそれはどんな感じ」



友人ー「うーん、なんかもやもやした嫌な感じ…」



私ー「それやん、そのもやもやが不安の実体(もやもやなので実体はないに等しい)やん。」



そうなんです。



この世の全ては「もやもや」なんです。



ここで私はある実験をしてみました。



不安の対極にある(と思われている)安心はどんな感じかなと、安心な感じとか安心した状況を思い返し、安心という言葉を外して感じてみました。



それはやはり「もやもや」でした。



安心と不安の実体は形のないもやもやなのです。



思考が、不安が起きている状況からもやもやに「不安」と名付け、安心な状況からもやもやに「安心」と名付けるだけのことである。



何もないもやもやに「不安」とか「安心」とかいう名前をつけたとたん、それは固定された実体をもってしまう。



名前を付けることは他と分けて分離させるること。



不安と安心はもともと同じ「もやもや」であったのに、その状況(「もやもや」の表面にほんの一瞬起こっていることであって、本質は「もやもや」のほうにあり、それは起こっていて起こっていない)に差があるため、「不安」と「安心」という名前を付けて二極に分離させてしまう。



そうなんです。



「不安」と「安心」のような対立的なことが本質的に同じだということは、敵と味方とか愛と憎しみ・勝ち負け・喜びと悲しみ等々の二極も全て本質は同じ「もやもや」なんです。



本当のところ、「もやもや」も名前を付けているだけなので実は「もやもや」もない(何もない)んです。



こういうことをとてもシンプルに表現しているのが、仏陀が弟子の舎利子に伝えたという「般若心経」という短いお経なんです。



すごく簡単でわかりやすいので私は大好きです。