ブログお引越しのお知らせ
長い間こちらのブログを使ってきましたが、今まで使えていた機能が使えなくなったり、読者の方から使いがってが悪いという指摘等々が重なったためこの度アメーバブログへ引っ越しすることにしました。
下記のアドレスをクリックしていただくと、アメブロの「思考はシンプルな『今ここ』を言葉を使って複雑な問題に創り上げるー思考の特徴その3」へ飛びますので、よろしくお願いします。
尚この「青空と雲」のブログは今後も存在しますので、これまでの過去のブログをよむことができます。また新ブログにもここ2年くらいの過去のブログを掲載していますのでそちらでも読むことができます。
また新ブログは読者登録をすると、ブログ更新のお知らせが届くようになっていますので、今後もブログを読み続けてくださる方は読者になってくださると嬉しいです。
今後ともどうぞよろしくお願いします。
思考の特徴その2
前回思考は「今ここ」にないことを考える癖があると書いた。
思考が「今ここ」にないことを考えるの、は思考はが「今ここ」の愛・静寂・平和が大の苦手だからである。
「今ここ」なんて想像(創造)できないからである。
だから常に「今ここ」を否定する。
「今ここ」を否定して「今ここ」にないことを想像(創造)しようとする。
目の前の「今ここ」を分析・ジャッジ(判断)・否定する。
「これはもっとこうしたほうがいい」、「こんなのありえない」、「なんて馬鹿なやつだ」等々…。
常に目の前の「今ここ」を否定してもっと素敵な(?)何かを求めようとする。
個人はあるがままの自分や他人を否定して理想の人間を求めようとする。
思考にはそういう特徴がある。
けれど、本当に求めているのは「今ここ」にないものではなく、それとは真逆の「今ここ」そのものなのである。
思考で想像(創造)した理想とは真逆の「今ここ」に目を向けてみよう。
想像で創り上げたありもしない理想ではなく、「今ここ」の「あるがまま」に目を向けてみよう。
もしもあなたが真の平和や愛そして静寂・本質を求めているのなら、理想を取っ払って常に存在していてどこへも行かない足元の「今ここ」「あるがまま」を感じてみよう。
思考の特徴
家族で車で出かけようとしたら道路に車が何台か駐車していて一方通行のような状態になっていたので、なかなかスムーズに進まなかった。
やっとのことでそこを通り抜けたら、今通って来た方向に何台かの車が走って行った。
「あの場所を通り抜けるのは大変だろうな」という思考が湧きあがってくるとすぐ「今ここにないことを考えている」という気づきがあった。
その後すぐ夫が「今頃あの道は大変なことになっているだろうな」と言った。
この時、「自分の思考と夫の思考が分離して現れているのではなく、ただ一つの思考が現れているにすぎない」という気づきもあった。
この例のように思考は常に「今ここ」にないことを考える特徴がある。
「今ここ」にないことを積み重ねて創った世界を現実だと思い込んでいるのが思考の大きな特徴だ。
「今ここ」にない世界で右往左往しているのが私たちの特徴だ。
だから「今ここ」に戻れば右往左往する問題はなくなる。
言葉で創られていない「今ここ」は「ただある」だけの「何もない」世界。
それこそが私たちの本質でもあるふるさと。
幽霊の正体見たり枯れ尾花
お天気のよい日には毎朝1時間くらい散歩しているのですが、今朝道を歩いている時、後方で犬が唸り吠え付くような音が聞こえたので、とっさに「犬が後ろから自分に吠えついている」という思考に乗っ取られて身体が瞬時に堅くなった。
恐怖と共に後ろを振り向くと、なんのことはない。それはただ部活動のため登校してきた中学生の靴が溝の上に置かれた鉄板をこすった音だった。Σ(・□・;)
「幽霊の正体見たり枯れ尾花」という格言的な俳句があるが、私たちが現実と思っているのはまさしくこのように思考によって創造されたものであって、真実からはかけ離れている。
ラマナ・マハルシは、そのことを蛇と縄の喩えで説明しています。
「蛇だ蛇だと怖がっている現実は、実は縄のようなものにすぎず恐れる必要などない。」というようなことかと思うのですが、私のつたない体験も全く同様でただただ笑えるだけなのです。
真実はただ音が一瞬聞こえたというにすぎず、その音が過ぎ去った後で思考で「犬が吠え付いている」とかなんとかありもしないものを後の祭りの妄想として創り上げているのです。
真実は思考の前にただあるだけなのです。
伊東Dr.も言われていたように、「ただある」の後の祭りとしての思考が起こった後行為が起こり、さらにその後私が登場してくるのです。
言葉で「私が…をした」というようにです。
真実は言葉を全てなくして残った名前もなにもない「ただある」だけなのです。
故郷へ帰ろう
毎日毎日できるだけハートを意識し(胸のあたりに注意を向け)て暮らしているうちに、ある時ハートを意識すると、胸を中心にとても心地よい感じが広がっていってしばらくその感じが続くようになり、今ではハートを意識する度にとても心地よくなって、ずっとここにいたいと思うようになりました。(いったい誰が思っているのか?−一人つっこみ)
そしてやはりハートこそ私たちの本質である故郷への入り口なのだという確信を得ました。
心地よさと同時にあらゆる現れが変化していきます。
心地よさは続いていくけれど、現れは次々と変化していきます。
変化していく現れよりも、心地よい何もなさに安堵、幸せを感じます。
ハートを意識していると、現れのどこにも焦点が合っていないので現れはおぼろな感じになります。
現れを幻だというのは本当なのだと実感しました。
この何もない心地よい感じこそ、ただある故郷なのです。
変化していく現れのように見たり聞いたり触ったり匂ったり味わったり考えたりはできないけれど、それらが与えてくれるようで決して与えてくれない安心・平和・静寂がただある。
この安心・平和・静寂こそ故郷そのもの。
故郷へ帰るこつは、とことんハートを意識することなのです。
私たちが現実だと思っている世界と「今ここ」の世界は全てが真逆…。
毎日朝早くから蝉がうるさく鳴いています。
蝉の声にフォーカスして初めて蝉の声が聞こえてくるという事実に、ある時「はっ」と気付いたのです。
蝉の声について考えなければ、蝉の声は聞こえてきません。
蝉の声にフォーカスするということは、「私(主体)が蝉の声(客体)を聞いている」と蝉の声と私を分けることなのです。
だから蝉の声が聞こえてくる前は、私と蝉の声は分離しておらず一体なのです。
私もいなければ蝉の声もない。
ただあるだけ…。
おそらく言葉を知らない赤ん坊は「私」とも思わないし「お母さん」とも思わないので赤ん坊とお母さんは分離していません。
赤ん坊とお母さんは一体なのです。
赤ん坊にとって自分を含めた視野に入る世界は何の区別もない世界なのです。
お母さんやお父さんそして周囲の言葉を知っている人々に言葉を教えられて、言葉によって自分とそれ以外を分けていくのです。
言葉によって自分(主体)とそれ以外(客体)に上手に分けられるようになっていくことを成長と言うのです。
「分別ある人」などという言い方を時々しますが、これは自分と自分以外をきちんと分けることができる立派な人という意味なのでしょう。
私たちが生きる二極の世界は、自分と自分以外をきちんと分けてその枠をはみ出さないことをよしとするのです。
悟りや非二元の世界はそれとは真逆の世界なのです。
一生懸命がんばって夢を叶えるのが価値ある生き方だとしたら、その真逆は力を抜いてリラックスして何もしないということになります。
私は時々これを応用しています。
我が家はとても急な坂道を上ったところにあるのですが、暑い夏など家にたどりつくと汗びっしょりなので当然上るのはしんどいのですが、しんどくても坂道を上らなければ家に帰り着くことができないので、最近はいつも坂道を上る時力を抜いてリラックスしてハートを意識しながらちんたら上ることにしています。
力を抜いてリラックスしながら目線は斜め下を見ます。
決して家まであとどれくらいだと確かめたりしません。
リラックスして「今ここ」だけに集中してゆっくり歩くと、速度は遅いかもしれないけれど、平坦な道を歩くのとほとんど変わらずすごく楽に坂道を上れるのです。
「今ここ」には距離もなければ時間や角度などなにもないので楽ちんなのです。
皆さんも試してみてはいかがでしょうか?
今を生きるーパート2
友人が飼っている犬は、いつも自分の尻尾を追いかけながら尻尾に向かって吠えている。
最初は虫でもいるのかと思っていたが、そうではなく尻尾に怒っているらしい。
犬には自分という意識がないのでどうやら尻尾を自分のものとは思っていないようなのだ。
だから、視野に尻尾が入って来てそれが動くと吠えて威嚇するらしい。
自分という意識もなく自分そのものも見たことがないので尻尾がお尻にくっついていることも知らないから、尻尾を見る度に吠えて追いかけつかまえようとする。
何かの拍子に尻尾が見えなくなると、急にその行為をやめて静かになる。
毎日毎日飽きもせず同じことを繰り返している。
ついさっき同じことをやってもすぐに忘れてまた同じことをやっている。
犬には過去もなければ未来もない。
犬の過去や未来は人間の思考の中にしかない。
犬には時間や空間という意識はない。
犬は今しか生きていない。
今あることに反応しているにすぎない。
今が過ぎ去ればまた新しい今がある。
犬には今しかない。
人間の赤ん坊も犬と同じで今しかない。
「今鳴いたカラスがもうわろた」という諺があるが、ついさっきまで大声で泣いていた人間の子供がすっかりそのことを忘れてすぐに大声で笑っているように、子供の機嫌はすぐに変化するということを言ったものである。
人間も自意識が生まれて、他と自分を区別するようになるまでは常に今を生きている。
自意識が生まれて他と比較するようになると苦悩が生まれる。
悟りとは、人間も犬や赤ん坊のように本当は今しかないのに今ない過去や未来のことを思考で創ってあれこれ悩んで、不必要な問題をたくさん創っていると気付くことである。
犬や赤ん坊のように今あることだけに反応していればそれでいいのだと気付くことである。