今を生きる

井上哲玄老師が、NHKラジオ第2『宗教の時間』に出演されます。

聞き手は、2014年にNHK Eテレ『こころの時代』にご出演の際も、聞き手を務められた金光寿郎氏。

貴重な機会ですので、ぜひお聴きください。

放送日時:7月30日(日) 午前8時30分〜午前9時00分

再放送:8月6日(日) 午後6時30分〜午後7時00分

聞き手:金光寿郎



さて哲玄老師の御父上である井上義衍老師(500年に一人の覚醒者)も生前NHKの『こころの時代』に出演されたのですが、
今日は『井上義衍老師語録』二六「今を生きる」を紹介します。



「今を生きる」


「薪が燃えて灰になると見るのは過ちであるという道元禅師のお話があります。



私たちの目には、薪は薪として、燃えている薪は薪として灰は灰として見えているはずです。



薪が燃えて灰となることを私たちは知っています。知っているがために、今ここにあるものを、今あるとおりに見えていることに気付かないのです。



あすの心配をし、きのうを悔いる。今はこの文字を見ているのではないですか。」



そうなんです。



私たちは毎日、今ここにあるものに思考をプラスしてオリジナルストーリーを作って生きているのです。



不安・心配・恐怖等々の苦悩(もちろん苦悩だけではなく、喜び等のハッピーなこともそうなのですが、それらは苦悩にはならないのでそれらに関しては、それらもオリジナルストーリーだとわかっているだけでいいと思います。)は100%思考が創ったオリジナルストーリーで、その実体はありません。



今ここにあるもの+思考=オリジナルストーリーということに気付き、オリジナルストーリー から思考をマイナスして「今ここにあるもの」に気付く実践をこころがけることは大事なことです。



坐禅とはそういう実践をすることなのですが、別に座らなくても余分な思考に気付くことは可能です。



ちなみに私は日常生活の中でできるだけ、ハートを意識することによって余分な思考を落としていく実践を朝起きてから夜寝るまでやっています。



何故なら無意識になるとすぐ思考に乗っ取られてしまうからです。



思考に乗っ取られても気付けばいいので、「思考に乗っ取られている」とか「乗っ取られそう」だとか気付けばすぐにハートを意識すると、思考は静かになるのです。



この実践だと日常生活の中で気付くという意識をしっかり持っていればいいだけなので、あえて座ったり瞑想したりする時間を取らなくていいし修行感がないから楽ちんなのです。



「今ここ」はずっと永遠に「今ここ」にあり続けているので、そのことに気付けばいいだけなのです。



それを難しいと思わせているのは思考の仕業であって、本当は至極シンプルで簡単なことなのです。

見ているものと見られているものは一つの同じもの。

思考を観察していると、今ここの現れとは直接関係ない思考が突如現れ出てくることがよくある。



しかもその思考はどこからやってきたのか皆目見当がつかない。



今まで何もなかったのに何の前触れもなくいきなり現れ出でたのだから、どう考えても「ない」ところからやってきたとしか思えない。



そして知らぬ間にいつの間にか別の思考に変化している。



前の思考は知らぬ間にどこかへ消えて、それとは違う思考がまたどこかから現れている。



「どこか」というのは探しても「ない」。



思考は「ない」ところから現れて「ない」ところへと消えている。



よく注意していると、目に見える景色や触れる物そして聞こえてくる音なども全て思考と同じく、「ない」ところから現れて「ない」ところへ消えていく。(例えば右を見た時は左の景色はなくて、左を見た時は右の景色はない)



では、それらを観察してそのことに気付いているのはいったい何なのか?



無意識だとそれを「私」と名付けるのだが、意識的に注意していると、「私」と名付ける前に形のない意識のような何かが存在している。



形がないので見たり聞いたり触ったりはできないけれど、それはただ存在している。



それは形も音も何もなくただ「ある」。



ただ「ある」それが気付いている。



ただ「ある」それが見ている。



見ているただ「ある」が名前をつける前(私という点をつける前)であるなら、見られている対象も名前をつける前のただ「ある」ということになる。



ただ「ある」がただ「ある」を見(観察して)て気付いている。



見ているものと見られているものは一つの同じものである。



ラマナ・マハルシは、



「一つの独立した実体として、真我から独立したものとして見られるもの、それは非実在である。見る者と見られるものに違いはない。見られるものを真我として見なせばそれは実在である。



「純粋な意識は分割できないものであり、部分を持たないものである。それは姿も形も持たず、内も外もない。ハートである純粋な意識は、すべてを含み、何ものもその外になく、それを離れて存在しない。それが究極の真理である。」



「真我は今ここにあり、唯一それだけだ。」

(「静寂の瞬間ーラマナ・マハルシとともにーより)



と言っている。



なんだかいっぱいあるように思えるけれど、究極ただ「ある」それしかないのです。(/・ω・)/

現れにとらわれている時と現れから自由な時の身体感覚

身体感覚で言えば、情報や目の前の現れの内容にフォーカスしてそれに巻き込まれ右往左往している時は、緊張状態にあるため身体は硬くなっている。



既に消え果てた現れに思考を付け加えて世界を創ってあれこれ考えているせいか、気が上の方に上がっていて不安定な感じがする。



そのことに気付いて深呼吸しハートを意識すると、気が下に降りてきてハートから下がふんわりとやわらかくなって安心感が生まれ、心地よく幸せな感じがする。



スピード感で言えば、思考中心の時は時間に追われている感じがして常に急いでいる感じがあるが、ハートを意識して幸せ感のある時は実にゆっくり時間が過ぎていき、行動もゆっくりしている。



幸せになりたければ、まずはリラックスを心がけ外側の現れにフォーカスするのではなく、ハートを意識することをこころがけるのがいい。



思考にとらわれていることに気付くよう心がけ、気づいたら深呼吸してにこっと笑ってみるのもまたいい。

「何もない」ってどういうこと?

非二元について書かれた本やティチャー等が、「この世の全ては幻想にすぎない。何もない」などという表現を使っているが、それはいったいどういうことなのか?



私たちが生活している世界には実に様々な物が存在していて尽きることがないので、それらの現れにフォーカスしている限り、この世に何もないなんてとうてい思えないのだが…、



これまでも伝えてきた通り、目の前の現れは瞬時に跡形もなく消えて変化していくので、Aという現れをAと認識した時にはもう消えてBという現れに変化してるし、Bと認識した時にはBは跡形もなく消えてCに変化しているので、ABCについて語る時にはそれらはすっかり何もなくなっているのである。



思考について言えば、Dさんが何かを言ったことに対して「Dさんの言っていることは偏見にすぎず、本当は〜が正しい」という思考が湧いてきて反論したとする。



その時あったのはDさんの言葉や声だけでそれは瞬時に消えてしまったのだが、消えてしまった幻にフォーカスしジャッジして、さらなる言葉を付け加えて違うものに変化させている。



言葉で考える思考の世界は、言葉にした段階ですでに実体はなくなり思考で作った妄想しかないので、「幻であり何もない」と表現しているのである。



常に何かあるように感じられているが、それはすでにない。




すでに消え果ててないにもかかわらず、それがあるように感じられる。





「あるけどない ないけどある」、「ありながらない ないながらある」、
「色即是空 空即是色」。

今こここのの瞬間しかない。

本当のところ、常に「今ここ」しか存在していない。



「今ここ」とは、「私」と思い込んでいる者がただ今この瞬間存在している空間のことで、その瞬間見えたり聞こえたり触れたりしている物がある空間のことである。



それ以外の物は何もない。



地球とか宇宙とか日本とか北極とかetcは全て名前(言葉)しかない。



駅のベンチに座っていたら、そこで見えたり聞こえたりする範囲の物しかない。



右を向いたら左はない。



左を向いたら右はない。



「家に帰ってカレーを作ろう」と考えても、そこにはカレーも家もない。



時計を見て、「会社を出てから1時間経ったなあ」と考えても会社もなければ1時間もない。



常に今こここの瞬間しかない。



三次元的には連続した時間の流れがあるようにとらえているのだが、それはイメージの(思考)上だけのことであって、本当は今こここの瞬間しかない。



時間も空間もないというのはこういうことである。



あるのは、毎瞬毎瞬変化している現れだけであるが、それは現れては消え消えては現れての繰り返しに過ぎないので、決して連続してはいない。



「私」だと思い込んでいる現れも含めて、連続している現れは何もない。



あるのは、ただ現れが言葉になる前の静寂だけである。



それは言葉では表現できないけれど、目に映ったそのまま・耳に聞こえたそのまま・手で触ったそのままとしてただある。



あるがままただある。



言葉になる前の静寂としてただある。



それこそが「今ここ」と表現されている「ただある」存在である。



それは全ての生きとし生ける存在に共通にただある。



全ての人に共通にそれはある。



本当はそれしかない。



それこそが連続して永遠にただある存在である。



このことを体感するには、今ここにないことを言葉で表現(思考)していることに気付いて、気付いたらその思考をストップする実践をしてみることをお勧めします!!

今ここに安らぐことができれば苦悩は消える。

思考を観察していると、常に何かについて考えている(次から次へと思考が起こってくる)ことに気付く。



というか、考えようとしなくても何かのきっかけで突然想定外の思考が起こってくる。



今目にしたことからまるで連想ゲームのように、今はない過去の記憶が突然浮かんできて自分を責めたりすることがある。



あるいは、年金についてのニュースを見て年金が入ってこなくなったらどうしようかと不安になる。



よくよく観察してみると、苦悩の全ては過去や未来のことである。



今こここの瞬間にはただ今起こっていることがあるだけでなので、悩みはない。



起こっていることを言葉で表現する私が登場して、初めてそれが私の体験となり私の苦悩となる。



言葉で表現する私が登場する前には苦悩はない。



しかし常に言葉で表現する思考が起こっているので、苦悩は尽きない。



苦悩から解放されるにはどうしたらいいのか?



理屈的には言葉の前に戻ればいいのだが、気付いたらすでに後の祭りで思考は起こっている。



言葉の前をイメージできる人はそういう実践をやってみるのは超お勧めであるが、それはなかなか難しいという人には後の祭りでいいので、「こういう思考が起こっている」と気付く実践がお勧めである。



思考に気付くとその瞬間その思考が途切れて、その思考が消えるのである。



思考に気付いて思考が消えた瞬間が今ここである。



思考を観察して思考に気付く時間が多ければ多いほど、思考が消えている時間も多くなるので今ここに安らぐことができるようになる。



そういう実践を毎日毎日繰り返しやっていると、次第にゆとりができて思考に巻き込まれるとすぐに気付くことができるようになり、やがては以前悩みであったことが全く悩みでなくなっていることに気付く。



そうなればしめたもの!!


「重っ苦しい人生から軽々しいお気楽な人生へ」と人生の捉え方を変換させるには、気付くことは超大事なポイントです。



但し、気付いているのは個人の私ではなく、ただある真の私であることをお忘れなきように(^_-)-☆

私は何かをすることができるのか?

今日は前回(4月23日)の和サンガで伊東充隆Dr.から聞いた話を紹介します。



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「私が何かをしている」というのはどういうことか?



まず思考が先に起こり、行為が起こる。



その直後私が登場する。



脳は私が何かをしていると思わ(錯覚さ)せる。



つまり「私が〜している」というのは、後の祭り。



全てが起こった後私が登場するのだから、私が何かをするというのは無理である。



科学的には、行為が起こる14秒前にすでに何をするか決まっている。



つまり全てが起こってから登場する後の祭りの私には、自由意志は全くないどころか、何もしていないのである。



このことから、行為や思考の主体としての私はいないということがよくわかる。



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私っていったい何なんでしょうね?



Who am I ?