私たちが現実だと思っている世界と「今ここ」の世界は全てが真逆…。
毎日朝早くから蝉がうるさく鳴いています。
蝉の声にフォーカスして初めて蝉の声が聞こえてくるという事実に、ある時「はっ」と気付いたのです。
蝉の声について考えなければ、蝉の声は聞こえてきません。
蝉の声にフォーカスするということは、「私(主体)が蝉の声(客体)を聞いている」と蝉の声と私を分けることなのです。
だから蝉の声が聞こえてくる前は、私と蝉の声は分離しておらず一体なのです。
私もいなければ蝉の声もない。
ただあるだけ…。
おそらく言葉を知らない赤ん坊は「私」とも思わないし「お母さん」とも思わないので赤ん坊とお母さんは分離していません。
赤ん坊とお母さんは一体なのです。
赤ん坊にとって自分を含めた視野に入る世界は何の区別もない世界なのです。
お母さんやお父さんそして周囲の言葉を知っている人々に言葉を教えられて、言葉によって自分とそれ以外を分けていくのです。
言葉によって自分(主体)とそれ以外(客体)に上手に分けられるようになっていくことを成長と言うのです。
「分別ある人」などという言い方を時々しますが、これは自分と自分以外をきちんと分けることができる立派な人という意味なのでしょう。
私たちが生きる二極の世界は、自分と自分以外をきちんと分けてその枠をはみ出さないことをよしとするのです。
悟りや非二元の世界はそれとは真逆の世界なのです。
一生懸命がんばって夢を叶えるのが価値ある生き方だとしたら、その真逆は力を抜いてリラックスして何もしないということになります。
私は時々これを応用しています。
我が家はとても急な坂道を上ったところにあるのですが、暑い夏など家にたどりつくと汗びっしょりなので当然上るのはしんどいのですが、しんどくても坂道を上らなければ家に帰り着くことができないので、最近はいつも坂道を上る時力を抜いてリラックスしてハートを意識しながらちんたら上ることにしています。
力を抜いてリラックスしながら目線は斜め下を見ます。
決して家まであとどれくらいだと確かめたりしません。
リラックスして「今ここ」だけに集中してゆっくり歩くと、速度は遅いかもしれないけれど、平坦な道を歩くのとほとんど変わらずすごく楽に坂道を上れるのです。
「今ここ」には距離もなければ時間や角度などなにもないので楽ちんなのです。
皆さんも試してみてはいかがでしょうか?