非二元(自己の本質)の探究は難しくはない。
秋晴れの気持ちのいい朝、玄関の扉を開けるとどこからか甘い香りが漂ってくる…。
「あぁ、これは金木犀の香り…」と思いながら門を開けて外へ出ると、お向かいの家の前の金木犀が今を盛りと咲き誇っている。
金木犀の甘い香りに包まれながら坂道を降りていくと、目の前には神戸の街並みと海が広がっている。
これは今朝の一コマ。
確かにこういう感じで外出したのだが、これは全て言葉で作った情景(ストーリー・作り話)。
この情景(ストーリー・情景)から物の名前を除いたら何が残るのだろうか?
秋晴れ・きもちのいい朝・玄関・金木犀・坂道・神戸の街並み・海…etcの名前を一つ一つ消していくと…、
そこには一つに繋がった(名前がないので分けることができない=分離がない)風景だけが残る。
赤ん坊が見ているのはおそらくこのような一つに繋がった風景であろう。
言葉をしらないので、物と物を分けることができず、「私」という意識もないので、自分も目の前の風景も全てが一つに繋がっている。
全てが「私」なのである。
これこそ原始の視点であり、自己の本質なのである。
赤ん坊の頃、私達はみんなこのように目の前の風景を見ていた。
知らないのではなく忘れているだけである。
全く初めてのことを探求していくのではなく忘れていることを思い出せばいいだけなのだから、非二元(自己の本質)の探究は難しくはないのである。