思考は真実が嫌い

思考は常に今を受け入れようとしない。



「こんなはずがない」「これとは違う」



と今を否定し、今と違うところに真実を求めようと動き始める。



真実は今にしかなく、すでに真実であり、真実以外は何もないにもかかわらず、常に真実から目をそらそうとしている。



もし万が一「時空もなければ個人もいないし分離もない」などという真実に気づこうものなら、思考は躍起になって、思考しなければどうにもたちいかないような罠を仕掛けてきて、時空の私を思い知らせる。



思考にとって「主体は個人の私でない」などという真実は、受け入れがたい あってはならないことなのだ。



だから常に「主体は個人の私である」と納得せざるを得ないような罠を仕掛けて、個人が存在する分離の世界を錯覚させようとする。



真実は思考とは常に真逆。



人は自分の身体をコントロールすることはできない。



心臓を始めとする内臓は個人の意思とは関係なく勝手に動いている。



それと同じように思考も個人の意思とは関係なく勝手に起こっている。



個人の意思と関係なく起こっているものは、当然ながら個人のものではない。



つまり、思考も身体の動きも全てただ起こっているだけで、それを動かす主体(個人)はない。



思考はこのような気づきは大嫌いのはずだ。



だからきっとまた時空の中で個人があれこれ悩んで思考まみれになるような罠を仕掛けてくるに違いない。



Well come!!