自動反応+思考の後付け=ストーリー(作り話)

私たちが個人の私が感じていると思っている心身の感情や動きは、単なる自動的な反応にすぎない。



例えばAという刺激に対してはA'という反応をしA"という行動をするというパターンのようなものがあって、喜怒哀楽というような感情もそれに続く行動も全て決まったパターンに則った自動的な反応である。



私たちが私の心身と思っているものは、実のところ外からやってくる刺激に反応するロボットのようなものにすぎない。



私たちは外からの刺激に反応するだけでなく、即座にその反応に対して「Bということが起こったのでB'という感情や想念が生まれB"という行動をした」と思考で後付けをする。



こうして、私という個人のストーリー(作り話)が生まれ、それこそが私だと思い込む(錯覚する)。



自動反応+思考の後付け=ストーリー(作り話)



何故そんなことをするのかと言うと、外からの刺激による反応の段階では、以前にも述べたがただの「もやもや」にすぎないのでとても不安定なのである。



私たちは、その不安定さを安定したものにするために言語化して確実なものしようとするのである。



言語化するということは概念の枠にはめて固めるということであるので、「もやもや」を「悲しい」とか「腹立つ」とかいう言葉におきかえるとなんだかそれが安定した確実なものになったような気がする。



しかし確かなものになったような気がするだけで、それは本物の安定ではなく単なる錯覚(幻)にすぎない。



私たちはどこかで「このストーリーが本物ではなく幻だ」と知っている。



個人のストーリーを作っても作っても依然として不安定だと分かっている。



だから次から次へと形を作ることを繰り返して、いつまでたっても満足しない。



私たちはかくも安定を求めている。



形を作ることによって満足が得られないとしたら、どうすればいいのか?



それはベクトルの方向を真逆に向けることである。



「もやもや」を言語化して形を与えるのではなく、「もやもや」を「もやもや」のままにしておくことである。



まずは、「もやもや」に気づくこと。



気づいたら、その「もやもや」と共にその気づきにとどまることである。



「もやもや」を味わい尽くすことである。



例えば、刺激に反応して「怒り」の感情が起こったとする。



できるなら、怒りを対象に向けたり誰かに話す前に今ここに起こっている「怒り」の感情に気づき、「怒り」という名を外して名のない「もやもや」と共にいて「もやもや」を感じ続けることである。



そうしているとその「もやもや」は、やがて泡のように消え去るだろう。



そうやって「怒り」は成仏する。



衆生本来仏なり」(白隠禅師)