誰が気づくのか?
私たちが自分の心身の動きや思考に気づいている時、
ほとんどの人が、他と分離した個人の私が気づいていると思っている。
果たしてそうなのだろうか?
分離した個人の私は自分の目の前の対象物を見たり気づいたりすることはできる。
しかし、自分で自分を見ることはできない。
思考に関しても私=思考だと思い込んでいるので、個人の私は自分の思考を見て気づくことができない。
しかし、自分の思考や心身の動きに気づくということは確かにある。
ではいったい誰が気づいているのだろうか?
実は、個人の私が自分の心身や思考に気づけないのは同じ次元にいるからである。
同じ次元にいる限り対象は奥行きのある立体的なものとしてとらえることはできない。
ものごとの真実をとらえるためには、とらえる対象より一次元以上上の次元にいる必要がある。
そうして初めて対象の全体を見ることができ真実に気づくことができるのである。
だから、もし自分の心身の動きに気づくことができるなら、
それは次元の高いところに存在する「私」が気づいたということである。
この「私」こそ実体はない(わからない)ものの、真の私なのではないだろうか?
気づいているのは決して個人の私ではないと気づくこと(気づいていることに気づく)こそ非二元を体感するこつのような気がする。
「衆生本来仏なり 水と氷のごとくにて 水を離れて氷なく 衆生の外に仏なし
衆生近きを知らずして 遠く求むるはかなさよ 譬へば水の中に居て
私たちは全員もれなく気づいている。
私たちは全員もれなく真の私(真我)と共にある。
存在するのはただ静かな気づきだけ。
私もなければ世界もない。
それこそが非二元。