人生は思考さんの働きでできている。

この世(三次元の世界)において、全ては常に変化している。(諸行無常



例えば鶯が「ホーホケキョ」と鳴く声を聞いて、



私は鶯が「ホーホケキョ」と鳴くの声を聞いていると思っている。



私と鶯を分離させて私を主体にして、「私が鶯がホーホケキョと鳴くのを聞いている」と言葉で話を作っている。



それが言葉になる少し前には、鶯もいなければ 私もいない。



「ホーホケキョ」と表現されるような音があるだけである。



「ホーホケキョ」的な音が起こっているだけである。



この時 私=「ホーホケキョ」的な音である。



さらに言えば、音というのも言葉なので音と表現した時にはそれはすっかり跡形もなく消え果ている。



本当は何もないのである。



何もないと同時に音みたいなものが起こっている。



これに輪をかけて、音みたいなものが起こると同時に思考が働いて、私という主体と対象を分離させて「私は鶯がホーホケキョと鳴いているのを聞いている」という話を作りあげる。



そういうことが、肉体の六感(視覚・聴覚・味覚・嗅覚・触覚・直感)を通じて今ここ(何もないところ)で次から次へと起こり続ける。



起こると同時に思考が話(ストーリー)を作る。



真実は話を作る(思考が働く)のと同時の何もないところにあるのだが、起きていることと思考が同時に機能しているので、私たちは作り話を真実だと思い込む。



人生とは思考が作り上げた夢・幻のようなものである。



「色即是空 空即是色」(この世の諸相は実体がない。 実体のないものこそこの世の諸相である)とはこのことであろう。




そう言えば本能寺の変の時、織田信長は「人生五十年夢幻のごとくにて…」という有名な仕舞を舞って死んでいったと話が作られているが、人は死を目前にすると真実に気づくのかもしれない。



このことを腑に落とせば人生は深刻ではなくなる。



腑に落とさなくても、知識として知っているだけでも深刻さが和らぐ。



人生とは決して深刻なものではない。



ただ常に何かが起こっているだけであって、それを経験しているかのような肉体は決して「私」という主体ではない。



経験はない。



私たちが思っている人生とは、ただただ私ではない思考が大活躍しているだけにすぎない。



思考って無休(給)で自動的に働く機械のようなもの。



全くごくろうさんなこと。



もしマイナスの思考についていきそうになったら、



まずそのことに気づいて深呼吸をし、「思考さんごくろうさん」と思考の働きをねぎらって思考さんに休憩してもらうのがいい。



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