いわれない寂しさや虚しさはどこから来るのか?

私たち個人は、時にいわれない寂しさや虚しさに襲われることがある。



こんな時、私たちは誰かに会って話をしたり何かをして忙しくしてその思いを忘れようとする。



これもまた、何もない静寂(本質)を感じた時、何もない静寂など認めたくない思考が仕掛けてくる罠である。




賑やか好きの思考は、何もない静寂からできるだけ遠ざかってそれを忘れようとする。



いわれない寂しさや虚しさは本質に近い感覚である。



思考は、そんな本質に近い感覚からも遠ざかりたいに違いない。



しかしながら、古来日本では「わび・さび・幽玄・もののあはれ」などと言って見ることもできず形にもできないような幽かな美を表現することを芸術の極致として尊んだのだ。




芸術家が求めてやまなかったこの境地こそ、何もない静寂(本質)そのものではないかと思われる。



例えば
「さびしさは その色としも なかりけり 真木立つ山の 秋の夕暮れ」(寂蓮)

「心なき 身にもあはれは 知られけり 鴫立つ沢の 秋の夕暮れ」(西行

「見渡せば 花も紅葉も なかりけり 浦のとまやの 秋の夕暮れ」(藤原定家



などという古今和歌集に掲載されている三夕(サンセキ)の歌なども「わび・さび・幽玄・もののあはれ」を表現した歌として有名である。


一般的に思考は何もない静寂は嫌いなのだが、日本人は昔から「ただある静寂」を知っていて、芸術として表現していたのだ。



日本人は何もない本質と共に生きてきた数少ない民族だという思考(雲)が湧いてくる。