思い込みやジャッジを省いて目の前のものや思考を観察してみよう。

「何もないと言ったって目の前や頭の中やTVの映像に…あるじゃん。」



と思ってはいませんか?



確かに目の前に見える物、机や自分の手やその他諸々触ることができるものはあるような気がしますよね。



でも、それはずっと連続していつも存在し続けているのだろうか?



一番近い自分はどうだろう?



確かに手は見えるし触ることができる。



しかし、顔は触ることはできるけれど見ることはできないし、眠っている時は存在していることを確認できない。



視線は常に動いているので、先ほどTVでサッカーを見ていた(ちなみに日本はイラクに勝ちました(*´▽`*))けれど今はパソコンに向かっているので、TVもサッカーもない。



昼間職場にいる時は自宅はなかったけれど、今は職場がない。



…というように今目の前にあるものしかない。



あると思っているもので、常に存在し続けているものは実は何もないのです。



じゃあ思考はどうなのか?



目の前のものはまだ見たり触ったりできるけれど、思考なんて触ることも見ることもできない。



見ることも触ることもできないのだから「ない」としか言いようがない。



思考は何の根拠もないただの思い込みにすぎない。



そういうことに少しずつ気づいていくと、必要のない思い込みの思考が落ちていく。



少しずつ落ちていって、やがて「あるがまま」ということが「何もない」ということだとわかってくる。



逆に思い込みやジャッジを省いて「あるがまま」を観ていっても「あると思い込んでいるだけで本当は何もない」ということがわかってくる。



目の前のものも思考もないのだから、自分なんて「ない」ということも腑に落ちる。




そして、ずっと存在し続けているのは何もない静寂(自己の本質・真の私・青空)だけだということがわかってくる。



個人の自分は連続して存在し続けることはないけれど、真の私は永遠だということもわかってくる。



永遠とは何もない静寂。