吾唯足知
「吾唯足知」とは「日々是好日」と同じく禅の教えで「吾唯足るを知る」と読み、京都の龍安寺のつくばい(手水鉢ちょうずばち)にこの四文字が口と言う文字を中心に一周する形で配置されている。
吾
知 唯
足
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BE%8D%E5%AE%89%E5%AF%BA#/media/File:Ryoanjitemple.JPG
「私はただただ満ち足りていて過不足がないということを知っている」という意味である。
一般的には、
「あれがほしいこれがほしいと欲望をつのらせず今あるものに満足する心が大事である」というような意味であろう。
欲望の多い個人の私に対するいましめであり、この場合の吾は個人の私のことである。
しかし、禅的な意味での吾とは真の私つまり仏陀のように悟った吾のことである。
真の私(本質)は何もない静寂に満ち足りている。
それに比べて思考は「あれがほしいこれがほしい」とうるさく言い立てる。
思考がうるさいのであって決して個人の私がうるさいのではない。
だから個人の私は静かになる必要はさらさらない。
思考があれこれうるさく述べ立てても、「思考があれこれ言ってるわ」とそれらの思考に気づいて思考にとらわれなければ、すぐに思考は消えていく。
やがて思考がうるさくても本質(真の私)は静寂に満たされているという、
次々と起こっては消えていく思考と何もない静寂を同時に感じる不思議な感覚を味わうことができるはず。
とにかく真の私(本質)は、何もないけれど全てあるという圧倒的に満ち足りた感覚なのだとしか言いようがない。
超シンプルに表現するならば、「何もないことが幸せなんだよ」という感じかな?