何が起きても慌てふためくことはない。
何も考えようとは思っていないのに、どこからか次から次へと湧いてくる思考…。
本当に予告もなく突然ボコッと湧いてくる。
自分が考えようとは思っていないので、自分の考えでは決してない。
思考しているのは個人の私では決してない。
湧いてくる元がわからないので、きっと元もないのだろう。
何もないところから湧いてくる思考。
その思考を観察していて気づいた。
思考は100%過去のことや未来のことで、「今」のことは何一つない。
「あの時ああだった こうだった こうすればよかった」等々
「こんなふうになったらどうしよう」等々
全く飽きもせず次から次へと湧いてくる…
前の思考は次の思考が湧いてきた時にはもう跡形なく消えている。
だからいくら思考が湧いてきても問題ない。
ノープロブレム。
思考の中身に何故「今」のことがないのか?
それは、「今」には何もないからである。
思考の仕事は次から次へと問題を作ることだから、何もない「今」は問題がないので思考の対象にはならない。
問題が好きな思考は「今」が嫌いなはずである。
「今」と言っても時間のことではない。
時間などない「今」は別の言い方をすれば「永遠」。
この「永遠」も時間の永遠ではない。
この「今」こそ、私たちの本質である全体性であり、真の自己である。
「今」は安心で平和で愛しかない。
そんな何の問題もないところは思考の対象にはならない。
「今」ない過去や未来のことしか思考の対象にはならない。
「今」には何もなく、過去や未来もない。
つまるところ問題になるものは何もない。
思考が問題を作ることが好きなので、自分の思考でもない思考を自分のものと錯覚して、悩んでいるのが錯覚の私たち。
思考を表現している主体も悩みを表現している主体も、全ての源である全体性(自己の本質)であって、決して個人の私ではない。
個人の私などいない。
全て全体性の一人芝居・自作自演である。
一人だと面白くないから、これでもかとたくさん作って遊んでいるのかも…?
だから個人だと錯覚している私たちには何もできない。
何もできないから、全体性がたとえどんなことを表現しようとも、慌てふためくことなくしたいようにさせておくしかない。
全体性の本質は、愛・平和・安心・静寂なのでたとえどんなことが起きても、お任せしておけば大丈夫なのである。