この世の全ての現れを表現しているのもそれを見ているのも全体性である(林檎が林檎を見ている)。
この世は実に様々なことが起こってる。(と錯覚している)
情報や実体験やら、私たちは様々な出来事に出会う。(と錯覚している)
いいこと悪いことhappyなこと悲惨なこと…。(と錯覚している)
しかししかしである。
それらこの世の全ての現れは、いっさいがっさい全体性(真の自己・自己の本質)の表現であり、作り話であり、夢であり幻想である。?
この世の現れを作ったのも全体性なら、見ている(3次元の物事に見えるためには見ているものはそれより1次元以上上の次元に存在している必要があり、同次元だと平面的にしか見えない)も全体性である。
全体性が作った全ての現れを全体性が見ているのを、私たちは3次元で起こっている出来事を自分が見ていると思っている。
しかし、その思いは全て錯覚である。
なんとなれば、私たち個人は全体性の見ている現れ(夢)のワンシーンの登場人物にすぎず、そのシーンから分離して存在することはできない。
つまるところ、見ている主体も見られている客体も全体性なのである。
このことを伊東Dr.は、「林檎が林檎を見ている」と表現された。
要するにこの世には全体性しか存在していないのである。
個々に分離したものは一切ない。
どんなに分離したように見えていても全てで一つの全体しかないのである。
分離したように見えるのは、自分の心身だと錯覚しているものに「私」という点を打つからである。
点を打ったとたん「私」と「私以外のもの」が分離し、「私」が主体となり「私以外のもの」が客体となってしまう。
「私」という点を打つ前の世界は、全てが一つの一つ一つに名前がついていない世界である。
分離のない世界である。
どうぞ「私」という点を外して、「私」という点を打つ前の世界を想像してみてください。