全体性の本質は愛そのもの。

常に存在し続けている全体性(真の私)は何もない(空)けれど、その何もない全体性から全ての現れ(色)が生み出されては、何もない全体性へと帰っていく。



言わば全体性は全てを生み出し、全てを受け入れて包み込む母のような存在。



全体性は選り好みも差別もせず無条件でありとあらゆる現れを受け入れている。



殺人も戦争もいじめ等々の、人間が忌み嫌う現れを全て平等に受け入れている。



しかし、全体性が生み出した夢にすぎない人間は、あれはダメこれはダメ、AよりBがいいと条件だらけで、差別や選別のしまくりである。



善悪を始めとする二極に分けて、あれこれジャッジしまくっている。



全体性には「AよりBがいい」とか「〜すべき」とかは絶対にない。



善も悪も上下も多少も、悲喜も幸不幸もありとあらゆる二極も全てOKである。



何もないけれど、そこから全てが平等に現れている。



だから全体性の本質は愛そのもなのである。



「神は愛である」とはこのことである。



私たちの本質は愛なので、どんな悲惨な憎むべき現れが起こっても、起こると同時にその現れは許されている。



思考が許さなくても全体性(神・真の私)はどんな現れも起こると同時に受け入れ許しているのである。



愛とは、Aは受け入れるがBは受け入れないという偏見に満ちた思考にとっては実にシビアなものなのである。



思考は決して全てを受け入れることはできないが、そういう思考と同時に存在する全体性は全てを受け入れ続けているのである。