何かをしている私(個人)はいない。

前回個人の私は何もしていないけれど、真の私(全体性)が全てをやっているというお話をしましたが、本当に個人の私は何もしていないのです。



あなたはあなたの心臓及び内臓を動かしていますか?



あなたは呼吸を意識的に自分でしていますか?



排尿排便は自分でコントロールしていますか?



自分で病気になっていますか?



喜怒哀楽の感情は自分で起こしていますか?



こうして一つ一つ確かめてみると、自分の心身を動かしているのは自分ではないということがわかってきます。



「私が〜をしている」というのは実はただの思い込みにすぎず、自分でしていることは何一つないのです。



自分に関わる全てのことは全体性(真の私)がやっていて、個人の私は何もしていないのです。



私(個人)がいないとはこういうことです。



個人の私はいなくて真の私(全体性)しかいないとはこういうことです。



分離の個人は幻想(夢)で分離のないたった一つの全体性しかないとはこういうことです。



命の本質はただあるだけで何もない全体性なのです。



それはあるように見えていて瞬時に変化するこの世の夢と常に同時に存在しています。




それを真の私とか全体性とか神とか非二元とか青空意識とか様々に表現しているのですが、どのように名付けようと全ては同じ命の本質なのです。




もしも見ている夢が苦しみならば、それと同時に存在している穏やかに満ち足りた静寂に気づくことは救いになります。



キリスト教ではそれを愛と呼び、仏教では慈愛そして慈悲と言います。



二極のこの世の夢と同時に存在している穏やかに満ち足りた静寂に気づくことで人生の夢を二倍楽しめるのではないでしょうか…(*´▽`*)