「ある」が全てを見ている。

昨日は4ヶ月ぶりの「大阪和サンガ」に参加してきました。



たくさんの面白い話を聞いたので、少しずつ小出しにしてシェアします。



今日は前回のブログの最期に「気付きの意識だけがありました」と書いたので、そのことに関する話をシェアします。



この気付きの意識こそが真我とか全体性とか悟りとか非二元とか様々に表現される命の本質なのですが、伊東Dr.の話では…



これにネーミングすると人間はどうしてもどこかに対象としてあると思ってしまうので、ただ「ある」とシンプルに表現して話をされました。



本当はこの「ある」しかなく、時計があるのではなく、「ある」が時計を見ているのであり、



「悟り」という概念(思考)があるのではなく、「ある」が「悟り」という概念を見ているのである。



肉体があるのではなく、「ある」が肉体を見ているのであり、



「ある」が肉体を見た瞬間、見られているのを「私」だと思った(錯覚した)。



主体は「ある」で見られているのは客体なのに、主体と客体をひっくり返して見られているのを「私」(個人)と言って主体と思い込み分離のカーテンを作った。



という話をとても興味深く感じました。



「ある」が肉体を見た瞬間、見られている客体が主体である「私」だと錯覚して、「私」と「私」以外を分離したのだとしたら、「私」(個人)は「ある」に見られているんだと思ったので、帰りのバスの中で何もないものに見られている自分をイメージしてみました。




すると、得体のしれない視線を感じてなんだか背中のあたりが「ぞわ〜」とするような感じと共に愛されているという感じがありました。



もしかしたら、この得体のしれない視線は「愛」なのではないでしょうか?



そうだとすれば、見られているということは「愛」のシャワーを浴びていることになるでしょう。



その「愛」を遮って「私」と思い込んだとたん「私」という分離のカーテンが出来て「恐怖」が生まれたということになるのでしょうか?



もともと「ある」から見られている側として一つであったものを、「ある」が肉体を見た瞬間見られている客体を「私」という主体と錯覚し、「私」というカーテンで「私」(主体)と「私以外のもの」(客体)に分離させたために「恐怖」が生まれたということになるのかなと思いました。



伊東Dr.が「現れをコントロールすることはできないが、現れをどのように受けとめる(体験する)かは完全に(100%)自由であり、その体験には『愛』か『恐れ』(愛の不在)しかなく、つまりは『愛』しかない」と言われたことがストンと腑に落ちました。



(*´▽`*)