意識の具現化及び映像体験

 最近、15年ぶりくらいに朝のラッシュ時の電車に乗る機会があった。

 久しぶりの満員電車で慣れていないせいもあって、かなり窮屈であった上に、私の前に立っている人がリュックを背負っていて、そのリュックの金具が私の胸やお腹に当たって、痛くて痛くて、思わず心の中で「いいかげんにしてよ」と叫んでいた。

 電車に乗っていた時間は、20分くらいなのでたいしたことはないのだが、普段満員電車に乗らない私には、けっこうきつかった。

 駅について改札口に向かう途中、二人の中年男性が「お前が先にたたいたんだ」「いやお前だ」と相手になぐりかかっているその真ん中に駅員さんが割って入って二人の喧嘩を止めている光景に出くわした。

 少しどきどきしながら、その前を通り過ぎようとした時、どこからか「あれは私だ」という思いが湧き上がってきた。

 半分くらい納得いかない感じで10歩ほど歩いた時、また「あれは私だ」という思いが出てきた。

 そこで、先ほど電車の中での「いいかげんにしてよ」という自分の腹立たしさが思い出された。

 この時、そうか、あの「いいかげんにしてよ」というリュックの主に対する私の腹立たしさが形になって現れたのが、中年男二人の喧嘩なのかという気づきがあり、腑に落ちる感じがあった。

 私以外にも満員電車で腹立たしい思いをしていた人はいただろう。

 それらの人々の意識が具現化したのが二人の喧嘩。

 我々の意識は分離していると考えていた以前の自分なら、自分も同じように腹を立てたことはどこかへ置いておいて、きっと喧嘩している二人を大人げないとジャッジし、軽蔑したことであろう。

 決して積極的に「あれは私だ」と思ったわけでもないのに、そのように気づかせてくれる何か(たぶん大いなる存在・神様・仏様)が存在し、私がすべてに繋がっていて、みんな自分なんだよと教えてくれたのだ。

 そのことに気づいた後で二人の喧嘩を見たら、二人が、お前の意識を形にするとこうなるんだと私に見せるために演じてくれている役者のように見えてきた。

 ああ、そうかこれがこの世界が映像のようになるということなのか、という気づきがまたあった。

 きっと、最近意識の具現化ということを結構真剣に考えていたりしていたので、神様が自分で体験する機会を与えてくださったのに違いない。

 満員電車にも、喧嘩している役者さん二人にも、駅員さんにも、繋がっているすべてにありがとうという感謝の気持ちでいっぱいになりました。

 そして心の中で「ありがとう・ごめんなさい・許してください・愛しています」とそっと呟いた。