思考の源にとどまる
暖かくなったせいなのか、昨日も今日も海が霞んでいます。
春霞なんでしょうか?
それとも黄砂?
黄砂に関する情報はないから、きっと気温が上昇したせいで海水が蒸発しているのでしょうね。
だから、やはり春霞。
我が家から見える神戸の街や海がぼんやり霞んでいるので、なんだかそれが現実の街でなく蜃気楼のように感じられるのです。
きっとそれが真実。
夜景もまた非現実の街に見えるのですから。
私たちが目の前に見ているものや感じていることが実は真実ではなく映像(夢)なのだと信じられたら、私たちは今よりもっともっと楽になり生きやすくなるはずですよね。
それにしてもマインドというのは、毎瞬 毎瞬なんと巧妙に私たちに罠をしかけて囚われの世界へ陥れようとすることか!
12月の琵琶湖接心会に出席してから、そのことがとてもはっきりわかるようになりました。
自分だけでなく人のことまでわかるので、最近ちょっと胸が痛いような腹立たしいような気持ちになったりしますが、そういう時、これは私ではないと思いながらその源を探りじっとそこにとどまるようにしています。
そうしていると次第に私のものでないマイナスの感情や胸のしこりがすーっと軟らかくなって消えていくのがわかります。
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12月の時期は、人々の集合無意識が孤独を感じる時期。
12月8日は、ブッダが悟りを開いた日。
成道会(じょうどうえ)として祝う。
12月24・25日は、キリストの誕生日。
クリスマスとして祝う。
逆説的に人々が孤独を感じやすい。
孤独を避けるため人々は忘年会・クリスマスと賑やかにすごす。
こうしてあっという間に新年が訪れるのだが、真の意味で人々が強く孤独を感じることが自由になる効果的な(強く孤独を見つめていく)方法である。
この時期は真我(青空意識)が深まりやすい時期。
この時期、あらゆる思考や感情がやってくる度に、常にその思考の源を探してみる。
そして思考の源にとどまることを勧める。
軽くやってみるとよい。
頻繁に実践していると、嘆き・悲しみ・慰めを求め続けるちっぽけな己に関わることなく、我にとどまることができるとわかってくる。
思考の源としての我にとどまる(我から外へ出ない)。
思考・感情(分別・ジャッジ)のない我にとどまる。=無分別(ノージャッジメント)の我にとどまる。
シンプルな問いかけと共に源にとどまることこそ、真我への最短の道。
いい瞑想だとかよくない瞑想だとかジャッジする思考は、どこから来ているのか?
問うた後しばらく沈黙する。
それに慣れてくると、ハートから意識が漏れていくことがなくなる。
そうすると、ある日嘆き・悲しみ・慰めを求め続けるちっぽけな己ではない我にとどまるものさえなくなっていく。
我にとどまることさえなくなっていき、対立するものさえなくなる無分別状態に入り、世界と我という対立がなくなり消えていく。
そのようなまなざしを慈悲と言う。
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あまり長い間パソコンに向かっていると、電磁波やら何やらで身体によくないし肩も凝ってきたので今日はこのへんで終わります。
年末に感じる寂しさは、私の寂しさではなく集合無意識を知らず知らずのうちに拾っているのだとわかったので安心しました。
寂しさが集合無意識なら、年末の追い立てられるような忙しい感じも集合無意識以外の何物でもありません。
また私が夢の中で感じ、目が覚めてからもしばらく感じる寂しさもきっと集合無意識なのでしょう。
人間とは、かくも我のものではない思考や感情に囚われ不幸になっていることか!
自分の日常の心の動きや周囲の人々の言動、そしてニュースを見る度に思い知る日々が続いています。
では次回をお楽しみに!!