私というミステリー

日々心に去来する思考・感情・想念等々を観察していると、それらは、誰かの言ったこと・何かのアクシデント・色々な音・TVや新聞雑誌の情報等の様々な刺激に反応して瞬時に出てきます。

心(mind)は、まるで機械そのもののように(ようにではなく機械そのものかも…)反応し続け、次から次へと思考・感情・想念等々を生み出し続けます。

私たちのほとんどは、心という機械から生み出された思考・感情・想念等々を私だと思って生きています。

さらに目で他人の身体が見えるため、私は身体だとも思っています。

果たして本当にそうなのでしょうか?

心という機械から生み出された思考・感情・想念等々をさらによく観察していると、
その時生み出された思考・感情・想念が長い間続くということはありません。

次から次へと生み出されていくということは、次から次へと消えていくということでもあるのです。

つまり私だと思っている思考・感情・想念等々はとても不確かなもので、あるんだかないんだかさっぱりわかりません。

それでは、思考・感情・想念が生み出されるその源には何か確固たるものがあるのでしょうか?

根源を探しても何もありませんし、心(思考・感情・想念等々)もこれがそうだと誰かに見せたり確かめたりすることはできません。

それじゃあ身体は触ったり見たりすることができるじゃないか、身体こそ私だと思いたいところですが、実は自分で自分の顔や背中を見ることはできないし、自分で触ることができるのは身体の一部だけで、全身を一度に触ることも見ることもできないのです。

鏡で顔や背中を見ることができるという反論が出てきそうですが、鏡で見ているのは自分の目で顔や背中を見ているのではなく、その実第三者の視点から見えている姿であり、直接自分で自分の顔や背中を見ることはできないのです。

自分で自分の全身を一度に見ることや触って確かめることができないのが自分自身の身体なのです。

このように考えると、私だと思っている心や身体がとても不確かなものだということがわかります。

つまり私とは、あるようなないようなとても不確かな存在だということなのです。

だからこそ多くの人々は、確かな自分を求めて自分探しをしたり、何かを一生懸命やって目標に到達しようとしたりするのでしょうが、その方法だと常に不満足(不幸)感が生まれ、他人と自分を比較して二極(二元)の世界の中で足の引っ張り合いをして生きることになってしまうのは何故でしょうか?

それは私があるという前提で私をプラスしようとして行動しているからなのです。

プラスしようとすればするほど、逆説的に足りない足りないという不満足地獄に陥ってしまうのではないでしょうか?

逆に私はないという視点でこの世界(自己)の本質を見てみようよというのが伊東Dr.の教えであり、最近流行りの非二元(ノンデュアリティ)的考え方なのだと思います。

日々の観察の結果、嫌な思考・感情・想念は、それについて行かないために、まずそれに気づいてそれに意識を向けずに呼吸を意識する(伊東DR.曰く無心の一呼吸)、あるいは「その思考はどこから来たのか」とその思考・感情・想念の源を問うことによって、思考・感情・想念の連続性を断ち切る実践を繰り返すことを続けていると、ものの見事にその嫌な思考・感情・想念が消え去ることを実感しています。

つまり、どんなにリアルな思考・感情・想念であっても根っこはないということです。

何もないところから思考・感情・想念を初めとするあらゆる現象が、機械のように次から次へと瞬時に現れてはまた何もないところへと消えていく。

それを簡潔明瞭に言い表しているのが「般若心経」の世界だと思っています。

私はないのに、誰が観察し気付きこの文章を書いているのか?

だとしたら、観察しているのも気づいているのもこの文章を書いているのも私ではない何か?

何もないし私もないけれど、私ではない何かがある…。

何かわからないけれど、何かあるような不思議な感覚?

これこそが真のミステリー!!!