ゆく河の流れは…

「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。淀みに浮ぶうたかたは、かつ消え、かつ結びて、久しくとどまりたる例(ためし)なし。世の中にある人と、栖(すみか)とまたかくのごとし。」

これは「方丈記」(鴨長明作)の序文であるが、この部分はこの世の諸相の本質を言い得て妙である。

例えば、川の流れに手をつける、あるいは、流れている水道の水に触れてみる。

その触れた瞬間の水は瞬く間に流れていって跡形もなく、ただ今触れている水はもう元の水ではない。

水も目に映る風景も瞬時に変化し続けて毎瞬毎瞬新しい。

この世の全ては常に新鮮(無常)なのである。

これが真理である。

ところが、私という個人がこれを経験すると、目に見える風景も手で水に触れる感覚も全く変化しておらず、あたかもその風景や感覚がずっと継続しているように思える。

ほとんどの人間が、真理ではない表面の出来事を現実だと錯覚して、思い込みの世界を生きている。

ほとんどの人間が幻(夢)を生きている。

しかしながらただそのことに気づいている存在がある。

それはただあるだけで物理的に確認することはできない。

そのため人々はそれを神と言ったり、真我、大いなる者、悟り、気づき等々様々の呼び名をつけた。


表面の諸相は次から次へと移り変わっていくけれど、そのことに気づいているそれだけがが変わることなく永遠なのである。

変化し続けていく諸相と永遠のそれは常に同時存在である。

どちらが先でどちらが後ということはない。

常に同時である。

非二元のテーチャーが真理について時間はないなどと語るのは、全てが同時だからである。

そのことをお釈迦さまは「色即是空 空即是色」と表現した。

色(この世の諸相)と空(ただあるだけの気づき)は即同時なのである。

日々自分の心身の動きに丁寧に付き合って、思考で判断する前のまだ何も名づけられていない様子に触れていくという実践(禅ではこれを座禅という)をしていると、ある時ふと「あっこれか?」と腑に落ちたりすることがあるのが面白い。