思い込みによって世界を想像(創造)している。

平日の午後5時頃になるといつも近くの中学から下校する中学生の賑やかな声が聞こえてくる。


しかし、その声を聴いている私と思しき主体は、その時たいていパソコンの前に座っているか読書をしているかで、中学生の下校風景なんか見ていない。


見ていないのに中学生が下校していると確信的に思い込んでいる。


もし窓から外を見たら中学生の下校風景が見えるだろうけれど、実際にそれを見るのと想像してそうだと思っているのとは、実は月とスッポンほども違いがある。


以前中学生の下校風景を見た記憶を基にして、実物を見ることなく中学生の下校風景だと想像しているのは、耳から入ってくる音から連想してそうだと思い込んでいるだけで、実際のところその時そこには音しかない。


中学生・下校風景・賑やか等はすべて言葉で作り出す観念でしかない。


今ここには目に映る部屋の様子と耳に聞こえる音しかないのに、観念で見えてもいないもう一つの世界を作り上げて、家の外を通る下校中の中学生の賑やかな声を聞いている主体としての私を想像(創造)する。


何度も繰り返し言うけれど、主体である私の姿の全貌は主体である私には永遠に見ることができない。


それにもかかわらず私という主体が存在すると思うことによって、作り上げた3次元の世界(現象界)を確固たるものだと信じ込んでしまう。


けれど、それらは全て錯覚であり、幻想(夢)にすぎない。


家の外を通っている中学生もいなければ、彼らの賑やかな声を聞いている私もいない。


あるのは、ただ目に映る風景と聞こえてくる音だけ…。


その時世界は今ここ目の前の世界たった一つで、感覚から想像される世界はない。=世界は二つはない。(非二元)


今ここ目の前の世界だって「行く河の流れは絶えずしてしかももとの水にあらず」と同じように瞬時に現れては去って行く。


今ここは継続していないので、時間の流れはない。


時間もなければ私もいない。


現れては去って行く目の前の世界の源(根っこ)はない。


本当は何もない。Σ(・□・;)


何もないのに、何かたくさんあるように思い込んでいる人間て面白い(*´▽`*)