思い切ってベクトルの方向を変えてみよう。

本当は目の前の世界(今こここの瞬間)しかない。


それしかないのに、私たち人間は、身体の中に何かいる感覚があるのでその何かを私と名付けて、それこそが主体だと思い込む。


同時に、主体と主体でないものを区別するために私以外のものにも名前をつける。


こうして私と私以外のものは分離する。


私と私以外のものが分離したことによって、私と私以外のものの間にすき間ができる。


このすき間が空間であり時間である。


私の誕生=時空の誕生となる。


しかし、私が主体となったとたん、皮肉にも今度は分離してできたすき間(錯覚)を埋めるために悪戦苦闘することになる。


分離した主体(私)が、それぞれのやり方で源(分離していない一体の私・真我)を追い求めることになる。


本当に欲しいものは今ここにあるのに、それと知らずしてビジネスや人助けそして自分探しの旅等々によって真理の探究を行う。


本当のところ、今ここに真理もしくは幸せがあるとただ忘れているだけでどこかにその感覚が残っているのでにこの世の全ての人々は、ビジネスや人助けそして自分探しの旅等々という代用によって今ここ以外のところ(例えば未来)に分離する以前の真の私(全てとの一体感・何もない世界・愛)を求めて様々なことをして生きているのである。


代用品を通して今ここ以外のところに、全て一体であった幸福感(愛)を求めてさまよい悪戦苦闘するのが現象界に生きる私たちの姿である。


そしてそれまで私と一体であった私以外のもの(対象)とそれぞれのやり方で関わりあうこととなる。


今ここしかないのにそれとは別のところに求めているので、当然のことながら常に不満足である。


ビジネスで成功しても失敗しても不満足である。


理想の恋人とめぐり会っても失恋しても不満足である。


二元(善悪・幸不幸・悲喜等々)の世界で他と比較して生きている限り死ぬまで不満足感は続くことになる。


あれやこれやたくさん手に入るプラスの方向に向かっている限り不満足感は続くので、思い切ってベクトルの方向を変えてみるとよい。


プラスで不満足なのだから、思い切ってマイナスにしてみる。


断捨離というのが流行っているが、これはマイナスにシフトした生き方なのだと思う。


有り余るほどの持ち物を一つ一つ整理していくと何故か気持ちがすっきりする。


物を整理して捨てていくことも大事なポイントだとは思うけれど、何よりも大事なのは思考の整理ではないだろうか?


個人的にお勧めなのは、伊東Dr.直伝の「無心の一呼吸」である。


マイナスの思考や感情に引きずられそうになってどうしようもなくなった時、そのことに気づいたら一息二息深呼吸をして、思考や感情の連鎖に巻き込まれないようにするのである。


これで上手くいかなければ、深呼吸の代わりに「そう思っている(感じている)のは誰か?」と問うてみよう。


これはその答えを見つけ出すのが目的ではなく無心の一呼吸と同じく思考や感情の連鎖を断ち切るための方便である。


初発の思考や感情は自然発生的にただ起こっているだけなのだが、それに引きずられてついて行ってしまうと、やっかいなことになる。


だから二次的な思考や感情にはついて行かないように自分なりのやりやすい方法を用いて思考の連鎖を断つのである。


癖になるくらいその実践を続けていくとある時、意識的にその実践をしなくても自動的にそれが起こるようになる。(こうなるには、非二元世界へのシフトを第一優先にするという覚悟を決めるという意識が必要な気がする。私は少なくともある時点で覚悟を決めた。)


それが自動的に起こるようになるとしめたものである。


あらゆる思考・想念・感情等を相手にせずともよくなるからである。


全ては何もないところから起こっては消えていくだけなので、相手にせずほっておいても大丈夫になるのである。


ほっておいてもマイナスの思考や感情だとすぐに気づき、決してついて行かなくなるのである。


気づいているのは決して私ではない。


実践しているのも私ではない。


私はいないので、自然にそういうことが起こっているのである。


だから、ここで私がやっていると錯覚すると元の木阿弥になる。


私は決して何もしていない。


全ては水の流れのように起こっては消えているだけである。