断片的な「今」を繋いで物語を作る私たち

この世で起こっている全ての現象の根っこはない。


何もないところから何かあるものが生じている。


あっと言う間に生じて、あっと言う間に消えていく。


当然「目の前の現象はなくなることはないから、それはおかしい」という疑問はあるだろう。


けれど目の前の現象をよく観察してみると、ずっと同じということは決してない。


同じように見えていてもどこかが変化している。


さっきまで犬が鳴いていたけれど、今はもう鳴いていない。


ずっと同じ姿勢でいるつもりでも、少しずつ頭が傾いていたりする。


一分間に何十回と呼吸をしている。


何十回とまばたきをしている。


一瞬たりとも同じではない。


一瞬前の自分や情景は跡形もなく消えている。


そして新しい自分や情景になっている。


もし以前の自分や情景が消えていなかったら、以前の自分と今の自分が無数に重なり合ってとんでもないことになる。


目の前の情景や思考も同じである。


何もないところから現れて何もないところへと跡形もなく消えていくので、すぐ忘れてしまう。

現れては消え消えては現れていくので、たった一つの世界(今)しかない。


何もないところから何かあることが起こるということに時系列はない。


何もないが先にあって、その後何かが起こるのではなく、何もないと何かあるは常に同時なのである。


例えば、寒い所に長時間いて風邪を引いたということが起こったとする。


二元的な考えだと「寒いところに長時間いた」ことが原因で「風邪を引いた」がその結果だと考える。


本当は、「寒い所にいる」という今が、周りの景色や音そしてその人の思考などが少しずつ変化しながら起こっては消え消えては起こり(何もないところから起こり)起こっては消えていることによって、二元的な長時間という感覚が生じる。


全て跡形もなく消えてしまっているのに、ずっと続いているように錯覚する。


そしてまた「風邪を引く」という今もまた何もないところから現れて消えていく。


「風邪を引く」時には、「寒い所にいる」今はもう跡形もなく消えていて、「風邪をひく」という今しかない。


「寒いところにいる」ことと「風邪を引く」は連続してはいない。


映画のフィルムのように動画の一コマのように細切れの今しかないのに、断片的な「今」を思考で繋いで物語を作る。


断片的な「今」が、あたかも連続しているように錯覚して、物語を作ってその中で生きているのが私たち。


こうして「寒いところに長時間いて風邪を引いた」という物語を作る。


しかし「今」は連続していないので、「寒いところにいる」ことと「風邪を引く」ことの因果関係はない。


全てが「今」で時系列もなければ、因果関係もない。


「今しかない」これが真実。


目の前のこれしかない。


ああ、なんというシンプルさ!!


目の前こと以外は何も考える必要はない。


なんという気楽さ!!