一炊の夢

タイトルの「一炊の夢」というのは、

唐の盧生(ろせい)という青年が、身を立てようと楚(そ)へ向かう途中、邯鄲の地で道士に枕(まくら)を借りてひと眠りし、その間の夢で、栄華を尽くした一生を送るが、目覚めてみると、まだ炊きかけの粟飯(あわめし)もできあがっていない程の短い時間にすぎなかったという、『枕中記(ちんちゆうき)』の故事から、人生や栄華のはかないことのたとえのことで、邯鄲(かんたん)の夢。邯鄲の枕(まくら)とも言う。


私たちが人生だと考えているのは、まさにこの一炊の夢のようなものである。


いやそれよりももっと儚い幻である。


例えば50歳の人が「50年の人生」と言ったとする。


その時の50年も人生も単なる概念(言葉)でしかなく、「50年の人生」という概念はそう言った「今」にしかない。


もしくは「50年の人生」というイメージしかない。



つまりどこを探しても「50年の人生」なんてないのだ。


「この50年間あんな苦しいこともあったし、こんな楽しいこともあった」とその人は言うかもしれない。


それもまたイメージの世界にしかない。


50歳のその人は「あんな苦しいことやこんな楽しいことがあった50年の人生」という夢を見ているのである。


50年間夢を見ているのではない。


今50年の夢を見ているのである。


昨日もない。


明日もない。


今しかない。


五感で感じる世界だけを観察しているとよくわかる。


いつもいつも「今」だけだと…。


「今」しかないと…よくわかる。


「今」というのが永遠なのだとわかる。


昨日や今日や明日なんて思考(想像)の中にしかないと、よくわかる。


だから、50年なんてあるはずがない。


「50年の人生」は物語。


私たちみんなで創った物語。


はかなく消え去る物語。