何があっても安心して生きていくことができる。
先日TVドラマを見ていたら、登場人物が「30年間も連れ添っていたけれど、私と夫の関係は表面的なものに過ぎなかった。」と語る場面があった。
このようなセリフは日常生活でもよく口にする。
実はこれは気づきであり、この気づきは自己の本質への入り口である。
本当は誰でも気づいている。
この世の全ての出来事が、何もないところから現れた表面的なものにすぎないことに気づいている。
経験は全て表面的に起こっているにすぎないことに気づいている。
しかしほとんどの場合、「表面的な関係ではないもっと充実した真の関係を築く必要がある」とか「表面的な出来事の裏に真の原因が隠されている」などと思考(マインド)が働く。
せっかく気づいた真理への入り口を否定して今ここにない理想の関係や原因を思考で作り上げ、そちらに向かって思考が動き始める。
真実は一つしかないのに、どこにもないもう一つの真実を理想の目標としてしまう。
かくして今ある真実と理想の仮想真実の二つができる。
この二つを比較して、理想の真実をよしとしてそれに向かって生きているのが人間。
二つを比較してより理想的な(ありえない)方を理想として生きる限り、いつまでたっても満足することはない。
あるがままの自分に背を向けて(を否定して)、ありもしない自分を妄想している限り決して幸せにはなれない。
真実は二つはない(非二元)。
マインド(思考)で考えて今がどんなにみじめであっても、逆にこの上なく素晴らしくても、みじめだとか素晴らしいとかいう判断も全て仮に想像した今ここにないものと今の二つを比較してそう思っているだけで、全て想像上の産物である。
泣こうが笑おうが今しかなく、泣いたり笑ったりしたとたんすぐに過ぎ去る。
だから、いつでも今あるがままがベスト。
理想はない。
怒るもよし、泣くもよし、笑うも喜ぶも落ち込むも全てよし。
全ては表面上のすぐに過ぎ去るできごとでただ起こっているだけだから起こるがままそのまま任せているがいい。
日々是好日
吾唯足るを知る。
どんな自分でもOK。
どんなことが起こってもOK。
何のジャッジもせず、それら全てを受け入れ許してただただ静かに見守っているのが全体性。
それこそが愛である。
それこそが自己の本質、真の自己である。
だからお任せしてさえいれば、何があっても安心して生きていくことができる。