二元(現象界)は非二元(青空意識・真我)が見ている夢
私たちが生きている(と錯覚している)この二元の世界(現象界)には実に様々なことが起きている。
清濁含めてありとあらゆる出来事が次から次へと起きている。
戦争もあれば、平和もある。
身の毛もよだつような殺人や虐待もあれば美しく愛あふれるエピソードもたくさんある。
私たちは、何でもありの世界に生きている。
だからこそ、永遠の愛や平和を願わずにはいられない。
それらを実現しようとこれまで様々な人々が苦闘を繰り返してきた。
しかし、今だかってその試みが持続したためしがない。
「祇園精舎の鐘の声諸行無常の響きあり」と平家物語の冒頭で述べられるように、
この世の様々な出来事は常であったことなどなく次から次へと変化していく。
だからこそ、私たちは変化のない永遠を求める。
無常(変化)と永遠
真逆のようで実は表裏一体である。
諸行無常の二元の本質は何もない永遠なのである。
それらはいつもセットで同時に存在している。
何もない非二元(青空意識・真我)はいつもなんでもありで諸行無常の二元世界の夢を見ている。
あたかも私たちが眠っている時に夢を見るように、非二元は二元の夢を見ている。
何もないからこそ、逆説的に何でもありの夢を見る。
本質には戦争もテロも虐待も競争も何もないのに戦争やテロや虐待の夢を見る。
私たち個人は非二元が見る夢の登場人物に過ぎない。
個人の私は見る存在ではなく、見られている側に属している。
青空と雲のように、本質である青空(非二元・真我)はいつも変化することなく永遠だが、雲(二元・諸行)は常に変化し風に動かされるだけの存在にすぎない。
個人の私は非二元に見られる夢の一部に過ぎず、夢の全体と切り離して存在することなどできない。
映画のスクリーンのごとく夢全体で完璧な一つとしてなりたっているので、その夢(シーン)が気にくわないからといって個人の私がコントロールしようとしてもそれは無理なのである。
見られている夢の一部にすぎない個人の私は当然のことながら主体になることはできない。
主体は常に本質である非二元である。
個人の私にできることはただ一つ。
全て本質にゆだねて安心して、今ここの登場シーンをせいいっぱい演じることである。
登場シーンは二元の世界なので、何が起きるかわからないけれど、
「何があっても何もないのと同じだよ 全て完璧なのだよ」と無償の愛をもって支えてくれる非二元である本質が同時に存在しているので、
いつでもどんな時でも安心して夢の登場人物を演じることができる。