本当の私は生まれたこともなければ死ぬこともない。

前回のブログで述べたように、個人の私は非二元が見ている夢の一部にすぎない。



夢の中ではどんなことでも起こり得る。



夢の中の個人は生まれたり死んだりする。



けれど、夢を見ている主体である真我は始まりもなければ終わりもない。



個人の私は自分が生まれたことは知らないし死ぬことも知ることはできない。



知るということは気づくということ。



現象界(三次元)の出来事を立体的に見て気づいているのは、四次元以上の存在である(「誰が気づくのか」にも書いた)。



全てを知り気づいているそれこそが主体。




主体である気づきの意識(真我)が生まれたことや死んだことに気づくことができないということは、主体は生まれたこともなければ死ぬこともないということである。



主体(真我)が見る夢の中の登場人物は生まれたり死んだりするけれど、その夢を見ている主体である真我は生まれたこともなければ死ぬこともない。



つまり本当の私は永遠不滅の存在ということである。



私たちが、自分が死ぬということを想像できないのはそのためである。



非二元の夢である二元の存在の私たちの本質は永遠不滅の非二元なので、



二元と非二元は同時に存在しているので、



私たちは時々ふっとそのことに気づくのである。



厳密に言うならば、個人の私が気づくのではなく個人と同時に存在している非二元の真我が気づくのだけれど、



私たちは個人が主体だと思っているので、あたかも個人が気づいたかのように錯覚するのである。



同様に、生まれたことも死ぬことも知らないのはあたかも個人のように感じられるけれど、



気づくのはあくまで個人の私ではなく非二元の真我(本当の私)なのだ。



それくらいすぐそばに真我はある。



すぐそばどころか個人の私と真我は同時存在なので、私たちはすでに真我そのものなのである。



だから、努力や修行をして真我に到達する必要はない。



「私はある。ただある」ということに気づけばいいそれだけである。



さらに言えばすでに気づいているので、



「ずっと気づいているんだ」と気づけばいい。



それだけである。



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