何もかもが自然に起きているだけで私(個人)は何もしていない
心臓を動かそうと思わなくても心臓は自然に動いている。
食べ物を消化しようと思わなくても胃は自然に食べ物を消化している。
呼吸をしようと思わなくても自然に呼吸している。
トイレ行こうと思わなくてもほっておいても尿(便)意をもよおす。
夜眠ろうと思わなくても自然に眠くなる。
朝目覚めようと思わなくても自然に目が覚める。
この瞬間怒りたくないと思っていても怒りは突然やってくる。
笑いたくなくてもかってに笑えてくる。
泣きたくなくても涙はかってに流れ出る。
等々…
書き上げればきりがないほど…というか全てが自然に起きていて、私(個人)という主体が何かをしているわけではありません。
だから、自分がこうしてやろうああしてやろうと力まずにリラックスして自然に任せるのがいいのです。
怒りやもめ事等のマイナス的なことも個人の私がどうこうできることではないので、ただ起こっていることを見ているしかないのです。
もし仮に自分が子供に虐待したとして、その時自分で自分を責めて落ち込んで苦しむより「あっ虐待が起こっている」と静かに見ているほうが虐待の再発率ははるかに低いはずです。
何故なら思考で自分で自分を責めることで虐待と言う夢(幻想)を作り上げ大きくして、あたかも実体があるかのように思い込み抑え込んでしまうから何かのきっかけがあると再び同じことが起こる可能性が高いのです。
しかし「虐待が起こっている」と静かに見ることができるなら、その後の虐待が起こりそうな時には「虐待が起こりそうだ」と静かに見ることできるため虐待を未然に防ぐことができるからです。
個人の私は、自分で自分の行動を見ることはできません。
だから見ているのは個人の私ではないのです。
見ているとは気づいていることです。
見ている(気づいている)主体は、仮に名前で言うなら、「大いなる者・神・非二元・青空意識」ということになるでしょう。
日常生活で見えている全てのものを見ているのは、個人の私だと思考は思っていますが、三次元を立体的に見ているのは四次元以上の存在なので、日常生活で様々なものを見ている主体は三次元にいる個人の私ではないのです。
個人の私が何かを見たり聞いたり味わったり触ったり匂いを嗅いだり考えたりしているのではなく、それはただただ自然に起こっているだけで、個人の私とは何の関係もないのです。
個人の私が何かを見たり聞いたり味わったり触ったり匂いを嗅いだり考えたりしていると思うのは、まったくもってただの錯覚にすぎないのです。
ただただ今起こっていることを見ている(気づいている)それだけなのです。
何の努力をしなくても全ての人(本当は真の私)はすでに見ていて気づいています。
すでにそうなのです。
私たちはもれなくそれ(非二元・青空意識)なのです。
それしかないのです。