美味しいフルーツ

つい先日とある事件に巻き込まれた時のこと…



それは言ってみれば降ってわいたような災難といったたぐいの出来事なのですが、私以外にも多くの方が関係しているので、具体的な内容は省かせていただきます。



「どうして私がこんな目にあわなければならないの?」と怒ったり、落ち込んだりしてもいいくらいの出来事であったはずなのに…、



その事件に遭遇した人達はみんな「私」をどこかに置き忘れてきたように実に静かに淡々と調和して行動していました。



一人一人が一つ一つのシーンの駒として、自分に合った役割を何も考えずに演じていたような感じでした。



私も同様に何の思考も湧いてくることはない上に「私」とすらも思わずに、ただそのシーンに合うように抵抗なく自分に課せられた役を静かに演じていました



何かをしているという意識すらなくただただ淡々と行動していました。



劇的な出来事が静かに展開していきました。



そこには「私」が全く存在しませんでした。



「私は…」と言った場合でも、それはその場にふさわしいただの言葉でした。



衝撃的な出来事はただのお話で、登場人物や情景等全てで一つで分離はどこにもありませんでした。



ストーリーの中で何かを言ったりしたりあるいは何かを言われたりしても、何かが起こっているという感じが全くありませんでした。



出来事が次から次へ泡のように跡形なく消えていくので、何もありませんでした。



降ってわいた災難と表現したけれど、災難なんてどこにもありませんでした。



静寂しかありませんでした。



衝撃的なお話の全てのシーンが、一期一会の有難い夢でした。



伊東Dr.から、自分にとってマイナスな状況や思考は本当は美味しいフルーツであると教わったけれど、本当にそうでした。



降ってわいた災難は、災難どころか美味しいフルーツなのでした。