主体も客体もない。
スピリチュアル系の人がよく言う「…を手放す」という言葉がある。
その言葉を聞くと、
「いったい誰が手放すのだろうか?」という思考が湧いてくる。
手放す主体は、もちろん「…を手放す」と言っている本人なのだろうけれど、
何かを手放すことで、手放した本人は自由になるのだろうけれど、
非二元的には手放す主体も手放される客体もない。
ただ表面上「…を手放す」的な事が、それを見ている(気づいている)存在と同時に起きているだけ…。
起きている事とそれを見ている(気づいている)存在は主体と客体というふうに分離していない。
起きていることとそれに気づいている(見ている)存在は一体なのである。
片方だけなくなるということはない。
同時に現れ同時に消える。
二つではない=非二元
主体と客体の二つに対立してはいない。
対立がないから争いも比較もない。
争いも比較もないから悩みがない。
何もない。
ただただ穏やかで静か。
静寂そのもの。
これこそが自由。
これこそが愛。