「悟りを開く」とは…?

先日娘の友人が生まれて3ヶ月の赤ん坊を連れて遊びに来ました。



畳の上に寝かされたん坊は上機嫌で、傍に座っている両親や私を見ているのですが、その視線の動きが気になったので、観察していました。



私達大人は時計なら時計に直接フォーカスするけれど、赤ん坊は視界に入ってくる全体と共に時計を見る(時計そのものにフォーカスしない)と黒澤一樹(雲黒斎)さんのお話会で聞いたことがあります。



確かに赤ん坊の視線は母親なら母親を見ているのだけれど、そこにフォーカスするといった感じではなく、私を見る時と同じように、視線の流れの中で一時的にそこに視線が止まるといった感じで、両親と私との区別は明確にはまだないようでした。



自分を含めた全ての存在が分離していないため、全てに向かって世界が開かれている赤ん坊は、まさしく悟っている存在だと言えるのです。



しかし、その後頻繁に接する両親がスペシャルな存在となり、言葉を覚えるにつれて次第に分離が加速して開かれていた世界が閉ざされていき、学校教育を受け社会人になる頃には、自分以外の存在と完全に分離して閉ざされた存在となる。



その中で一握りにも満たない者が、悟りとか真の私とかに興味を持ち探求を始めて、その中でさらに一握りの者が、紆余曲折の末悟りが何であるかに気づくのであろうが…、



悟りや真の私に気づくことを「悟りを開く」というのだそうだ。



赤ん坊の時は全ての人が悟っていたのだが、成長するにつれ悟り(真の私)との通路が閉ざされ、再び何かのきっかけで通路が開かれる。



閉ざされていた悟り(真の私)との通路が再び開かれることを「悟りを開く」と言うのだそうだ。



今日のストーリーはほとんど黒澤一樹(雲黒斎)さんの受け売り。



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