悟りも一つ

前回「エゴは一つ」というタイトルでブログを書いたので、今日は「悟り」について書いてみようと思います。



よく「〜さんは悟っている」などということを言いますが、本当のところ悟っている人などいません。



私という個人がいないのだから、個人が悟るということはありえません。



お釈迦様は悟っているんじゃないの…?



という疑問が湧いてきますが、釈迦という個人が悟っているのではなく、釈迦の悟りも全体性の表現であり現れにすぎません。



釈迦が悟っている人に見えているだけで、悟っている人は存在せず、ただの後の祭り(現れ)にすぎません。



「悟り」というのはただの言葉ですから、その言葉のマジックに惑わされているにすぎません。



もしも悟りというのがあるのだとしたら、悟っていると思われる現れの少し前の何もないただあるだけの全体性なのです。



エゴや思考と同じく、悟りもただ一つしかないので悟っている人などいないのです。



全ての現れの源である何もない本当の今こそ本当の悟りであり真の私なのです。



それ(真の悟り・全体性・真の私)は、私たちを出来ては流れ消えていく雲に喩えるなら、その雲の背後に永遠にあり続ける青空のように、いついかなる時でも私たちのすぐそば(呼吸よりも近い)にあり、私たちを支え愛してくれています。



だから問題があるように見えていても本当は問題はなく、悩みもあるように感じられるだけで本当は何もないのです。



安心しかないのです。