この世の全ての現れの主体は全体性である。
個人のように見えるものがブログを書いているのかもしれないけれど、私は私の全体像を見たことがないし書いているところも見たことがない。
書いている内容を前もって知っているわけではなく、ただ浮かんできた思考を言葉に置き換えているだけである。
ブログの文章もただの現れにすぎず、後の祭りである。
この文章は個人の私が表現しているのではなく、表現者は全体性である。
個人の私はいないので、非二元について知っているのは非二元そのもの(全体性・自己の本質)だけである。
分離して見えているので個人のように見えるのだが、個人のように見えている心身はAという刺激にはA’と反応し、Bという刺激にはB’と反応するとプログラミングされているアンドロイドのような機械であって、それは決して主体ではない。
主体は全体性(神・青空意識・真の自己・自己の本質・非二元等々たくさんのネーミングがあるが、ただあるそれ)だけである。
個人はただ起きている現れに過ぎない。
現れは後の祭りなので、現れた後ではどうすることもできないしすぐに消えてしまうので主体になることなどできない。
この世の全ての現れの主体は全て全体性なのである。
この世の全ての現れが調和していて何もない、それこそが全体性。