思考は常に現れに反応する
外を歩いていると、以前料理教室だったお店が、植物に囲まれたカフェになっていた。
オープンの準備をしているオーナーを見ながら、「料理教室のオーナーは以前病気で休まれていたことがあったので、身体の調子が悪くなってお店をやめたのだろうか?」に続いて「ここは場所的に人通りが少ないのでカフェだけだと経営が厳しいのではないだろうか」等という思考が起こってきた。
そこではたと気づいた。
このように思考は現れに反応して、頭の中で作ったありもしない妄想を次から次へと繰り返しているのだと…。
現れは本質ではなく後の祭りにすぎない。
現れは起こるやいなや跡形もなく消え去り毎瞬変化している。
現れに反応して起こった思考も、起こるやいなや跡形もなく消え去っていく。
現れにとらわれて、ああだこうだと考えるのも同じく現れである。
現れは本質ではない。
現れは自己の本質(全体性)の表現(夢)である。
このことを知っているのと知らないとではと気分的にかなり違ってくる。
例えば現れにとらわれて四苦八苦するような場合、①「私が苦しんでいる」と思うのと、②「これは全体性の表現であり私の苦しみではない」と思うのでは、②のほうが「私」がいないぶんずいぶんと気楽である。
様々な現れに対しての「私のもの」という所有欲や執着心が、あらゆるもめ事や苦しみを生み出していると言っても過言ではない。
「私のもの」なんて何一つない。
目に見えるものも見えないものも「私のもの」なんてない。
もちろん「私の心」もない。
自分の顔すら直接みることができないのに、心なんて見えるはずがないのだから…そんなものはない。
優しい心の人も冷たい心の人もいない。
正しい考えの人も間違った考えの人もいない。
それらの全てが、現れに反応して思考が言葉で作った現れである。
起こってくる思考に気づくことができれば、四六時中思考が現れに反応しているといるということにも気づくことができる。
気づくことができれば、気づいた時ほんの少し隙間ができる。
その隙間こそ、自己の本質(全体性)である。
それは雲間に見える青空のように、ただあるだけなのである。