「心」とは…? ラマナ・マハルシの言葉その12
昼食をうどんにしようということになって、私とパートナーの二人分のうどんを作った。
うどんを食べ終わったパートナーが、
「出汁は何でとったのか?」、、「味付けには何を使ったのか?」という質問をしてきた。
それらの質問に答えると、パートナーは「なるほど…」と言って別の部屋へ移動したのだが、
その後「何故あんな質問をしたのだろうか?」とか、
「うどんの汁がおいしくなかったのだろうか?」とか思いを巡らしている時、気づきがあった。
パートナーの言葉は、「出汁は何でとったのか?」、「味付けには何を使ったのか?」、「なるほど…」だけでありそれらの言葉は瞬時に消えているのに、
思考は、「何故あんな質問をしたのだろうか?」、「うどんの汁がおいしくなかったのだろうか?」などとありもしないことを付け加えて、ありもしない問題(世界)を作り出しそのことにエネルギーを費やしている。
心(思考・想念・感情)とはこういうものである。
現れに反応して今ここにない問題(世界)をあれこれ作り出しては、深刻になったり快活になったりするのが心である。
言葉によって今ここにない世界を創るのはきっと脳の仕事なのであろう。
しかし個人はそれを「私」の仕事だと勘違いして右往左往する。
今ここにない世界に反応して揺れ動く心に着いて行って金魚の糞のごとき思考を増やすばかりだと、真我からは遠ざかってしまうだけだ。
ここで肝心なのは、心の様に気づいて思考の連鎖を断ち切り気づきの隙間(空間)やすらぐことである。
ラマナ・マハルシはそんな心についてこんなことを言っている。
= 「心」と呼ばれているものは、真我に内在するおどろくべき力である。
心はすべての想いが起こってくる源である。
想いを離れて心はない。
それゆえ、想いが心の本性である。
真我の中から心が現れるときに、世界が現れる。
それゆえに、世界が(実在として)現れているときには、真我は隠されている。 =
= この身体の内に「私」として立ち現れるものが心である。
微細なものである心が、頭脳や感覚器官をとおして外部へ出ると、
粗大なものである名前や形が立ち現れる。
心がハート(真我・気づきの意識)の内にとどまっているときには、
すべての想いの源である「私」は去り、常在の真我が輝くであろう。 =
「静寂の瞬間 ラマナ・マハルシとともに」より