私たちの本質(真我)は沈黙(静寂) ラマナ・マハルシの言葉その13
真我は言葉として現れる少し前の世界である。
思考として現れる少し前の世界と表現しても同じである。
だからそれはどこか遠いところにあるのではなく、対象として向かって行くところにあるのではなく、全ての人の内面(心ではない)にただある。
言葉(思考)として表現されていないのだから、それは沈黙(静寂)としか表現できない。
そのへんのところをラマナ・マハルシは、次のように表現している。
= 真我は「私」という想いが絶対にないところにあるものである。
それは「沈黙」と呼ばれている。
真我そのものが「私」であり、真我そのものが神である。
すべてがシヴァであり、真我である。 =
= 真我は到達しなければならないような、どこか遠いところにあるのではない。
あなたは常に「それ」なのである。
ただあなた自身を非真我と自己同一視するという習慣を捨て去らなければならないだけである。
すべての努力は、ただそのためだけにある。 =
「静寂の瞬間 ラマナ・マハルシとともに」より