生きているとは「ある」(全体性)が私(個人)を見ているということ。

私(個人)が生きているということは、「ある」(真の私・全体性)が私を見ているということなのです。



私(個人)はいつでも「ある」(真の私)に見つめられ愛されている。



私(個人)は生きている主体ではなく、「ある」(真の私)によって生かされている客体なのです。



私(個人)に起こっているように感じられる全てのことは、「ある」(真の私)が主体として関り見ていることなのです。



私(個人)は見られている客体として、起こっている出来事のほうに属しているのです。



例えば、私(個人)が誰かと喧嘩して怒りが爆発したとしても、「ある」がその喧嘩と爆発した怒りに関わっている主体としてその場面をを見ているのであり、私(個人)はその見られている場面に属している一部にすぎないのです。



私(個人)は主体として何もしていない。



怒りの主体は私(個人)ではない。




主体としての私(個人)はいない。



怒りの場面しかなくて、怒りしかなくて…それもすぐに消える。



だから、もしもあなたが怒りを爆発させたとしても落ち込んだり反省したりする必要はさらさらない。



怒りを爆発させる私がいないように落ち込んだり反省する私もいないので、落ち込んだり反省したりと金魚の糞のように思考を増やしていくと、余計複雑になるだけだから、怒りが爆発した時に「怒りが爆発している」と気付いて深呼吸すればよい。



余裕があればその後口角を上げてニッコリすればさらにいい。(^_-)-☆