井上哲玄老師(曹洞宗禅の老師)の話は非二元の話と同じです。

昨年1月に有馬温泉で1泊のお話会に浜松から来てくださった、曹洞宗の老師である、井上哲玄老師の話を久しぶりYouTubeで聞いた。



禅は私がブログに書いている非二元・青空意識・命の本質と全く同じで、自分の思考・想念・感情を交えずに直接物の本質に触れることなので、老師はいつも徹底して自分(だと思っているもの)に向き合うことだと言われる。



このもの(自分)さえいればそれでよくて、本に書いてあることではないし、高いお金を払って話を聞きに行くことでもないと言われる。



また坐禅も座ることだけが坐禅ではなく、足が悪ければ椅子に座ってもいいし、横になってもいいとも言われる。



また日々自分と向き合って生活していく中で気付いていくことが大事とも言われる。



500年に一人の覚醒者と言われた哲玄老師の父親である井上義衍(ぎえん)老師の講話をまとめた「井上義衍老師語録」を購入した時に哲玄老師が直筆のサインと共に書いて下さった「直下承当(じきげじょうとう)」という言葉が禅の本質を語っているので、それについての義衍老師の講話をご紹介します。



坐禅をするということは、どういうことをやるのかといいますと、今の事実に直下に触れること、純粋にそれ自体にぶつかることなんです。

 坐禅というのは、特殊な訓練をするんじゃないんです。持ちものを何もかもみな捨てていけばいいんです。捨てるということは、どういうことかといいますと、一切の、どんな事象がどのように起きようとも、内からも外からも動いても動いても、その動きに対して、善いとも悪いとも、どうにかしようともすることを一切しないのです。一切の動きが動きのまんまにどうあっても構わんのです。

一切手付かずにいくと、自分の見解でない、これ(身体)の動きが分かるんです。一日中、なにをしていても、そういうふうにやっておいでになると、自分ではっきり手応えがあるはずです。

考え方を、ああのこうの言うてりゃきりがないです。それじゃから、そんなものを一切問題にせずに、そういうふうに問題にしようする主体を離してしまうんです。問題にする主人公、それを離してしまうんです。そうすると、無条件ですべて承認が出来る。それが坐禅の本質です。

時々刻々新たなることを知れ、これ執着を離れる道にして、人の救いなり。」



禅は宗教のように思われていますが、実はそうではなくて命の本質に触れる実践の道なのです。



最近久しぶりに聞いて面白かった井上哲玄老師のお話はYouTubeで下記のアドレスをクリックすれば見ることができますので、興味のある方はぜひどうぞ…。



お坊さんの話だからと敬遠せずに聞いてみると、目から鱗の宝の山ですぞ(^_-)-☆



https://www.youtube.com/watch?v=9ikC7WykRDs



https://www.youtube.com/watch?v=oYYtuDkjXYo