私(個人)がいるのではなく「ある」(全体性・真我)がいる。

最近また面白い体験があったのでシェアしようと思います。



家族の一人からあることについてダメ出しをされました。



それに対して反応が起きる一瞬前に、何かが「A−ごめんなさいと言ってそれを受け入れる道」と「B−それはいいがかりだと言い返す道」の二通りの道があるのだと観ていました。



しかし個人の私にはどちらかを選ぶことはできず、Bの方向に進んでしまいました。



個人の私だと思っている者が相手に文句を言うにつれて、それは止まることを知らず今ではない昔の出来事まで持ち出しあれこれつけ加えて文句を言うので、最初のどちらでも進める時のもやもやっとした問題がない状態と比べると、何かを言う度に雪だるま式に思考(言葉)がプラスされてとても大きな問題になっていきました。



そういうことは今までもよくあったのですが、たった一つ違っていたことがありました。



違いは何かと言いますと、その時問題がない状態から思考(言葉)がプラスされて大きくなっていく一部始終をじっと静かに観察して(気付いて)いる存在がいたことでした。



そのことによって、その体験は自分を責めて落ち込む体験とならずにとても面白くてパワフルな気付きの体験となりました。



その時気付いた一つめは、私だと思っている者がその時ただ起きたことに反応してそのことについて言葉で表現すればするほど、それは真実からかけ離れて元の出来事とは違う状態になっていくということ、つまり本当は何もないのに言葉で問題を創り上げて悩んだり喜んだりするのだということ。



二つめは、自分(個人)が体験することは自分で選べないということ、つまり体験の主体は自分(個人)ではないということ。



主体がなく起こっていることなので、それは行為ではなくただの出来事でしかないということ。
     


しかし人はその出来事を原因と結果がある自分の行為だと錯覚して問題があると思い込む(錯覚する)のだということ。 


三つめは、全ての私の体験だと思っていることは必ずすぐ傍にそれを静かに観ている存在があるのだということでした。



何かの刺激で起きてくるただの出来事を静かに観ている存在こそ、「ある」であり「全体性」であり「真我」であり…、それこそが全ての出来事に関与している存在なのであって、個人の私が関与しているわけではないのです。



今まで何度も繰り返しているように、個人の私がいるというのは単なる思い込み(錯覚)にすぎず、本当は「ある」しか存在していないのです。



しかし「ある」は、見えないし触れないし、なんだかよくわからない存在なのですが、実は個人が「私」がいると思っている感じこそ、この「ある」がいる感じなのです。



私(個人)がいるのではなく「ある」がいるのです。



ご清聴に感謝。
(人''▽`)ありがとう☆