気づいているのは個人の私ではありません。
つい最近、ほんのちょっとした出来事に巻き込まれて、あれこれ思考したせいかもやもやした気分をしばらく引きずっていました。
そこでこの嫌な気分をしっかり観てやろうと、その気分と共に瞑想をしました。
しばらくすると、その嫌な気分が私から剥がれ落ちて何もない空間に雲のように浮かんだような気がしました。
それはあるのかないのかわからないくらい幽かで、今にも消えてしまいそうなもやもやとした霞のような感じなのでした。
嫌な気分が私から剥がれ落ちたと表現しましたが、実はそれが私から剥がれ落ちたと同時に私(個人の私・自分)が消えました。
あるのは、あるかなきかの消えかかったもやもやのみ。
そこで気づいたのです。
「このもやもやこそ、私だと思っているものの正体だ」と…。
「私だと思っているものは、いつでもすぐに消えてしまいそうなもやもやみたいなものなんだ」と…。
「私なんてないも同然なんだ」と…。
では…気づいたのは誰…?
個人の私は消えたのだからもちろん個人の私ではありません。
気づいているのはいつでも個人の私ではないのです。
気づいているのは個人の私だと思い込んで錯覚するから、自我というようなありもしないものに苦しめられることになるのです。
全体性しかないのだから、気づいているのは全体性(真の私)です。
全体性は影も形もなくただ気づいているだけなので、ただ気づいているだけの存在など認めたくない思考は、それを個人の私だと錯覚するよう仕向けるのです。
確固たる心身をという形がある個人の私がいるように思わせるのです。
その手にまんまと乗って、何かに気づくのは個人の私だと思考で創り上げてしまうのです。
けれど、私だと思っているものの真の姿はすぐに消えてしまう不安定極まりないもやもやにすぎないのです。
もやもやどころか、それが消えれば何もないのです。
個人の私はいないのです。
やはり存在しているのは様々なことに気づいている、ただある全体性(真の私)だけなのです。
でもそれすら形はなくただ意識(この気づいているのはただの意識だけなので「気づきの意識」と言う人もいます。)だけがあるような感じなので、本当は何もないのかもしれません。
そうだとすれば、私たちが見たり聞いたり経験していると思っているのは、ただの夢だということになります。
全体性が見ている夢に惑わされないようにしましょうね。