大いなるマジシャン
そんなことを考える気もないのに勝手に現れてくる思考を観察していて、あることに気付きました。
思考はすき間から突然現れてくるということです。
温泉に入っている時、ポコッポコッと源泉から泡が出てくるようにすき間からポコッポコッと思考は現れてくるのです。
思考が現れてくるすき間は、何もなくただあるだけの「ある」に通じている。
思考は何もない「ある」から現れてくる。
思考に限らず全ての現れは「ある」から現れてくる。
全ての現れは現れたらすぐに消えてまた次の現れが現れてくる。
現れは瞬間瞬間変化していく。
「ある」は毎瞬毎瞬現れを創造している。
現れた瞬間消えていくものを毎瞬毎瞬創造している。
これは言わばマジックなのです。
私たちはこのマジックに翻弄されているのです。
すぐに消えていく幻に翻弄されているのです。
ここは大事なポイントなのですが、実は翻弄されていると思っている私たちもまた「ある」に創造された幻なのです。
マジシャンが何もないところから時計や花束を出してみせるように、マジシャン「ある」は何もないところから私たちの内と外を含めたありとあらゆるものを創造してみせたと思うやいなやすぐに消して、次から次へとマジックを見せてくれるのです。
そのマジックを見ているのは私たち個人のように思えるかもしれませんが、私たちもまた「ある」によって創造された幻なのですから、そのマジックを見ているのは私たち個人ではなく個人に限りなく近いところに存在する「ある」なのです。
「ある」は全ての現れと共に存在します。
全ての個人はいつも「ある」と共にいるのですから「ある」を見つけるのは本当は実に簡単なことなのです。
誰も常に「ある」と共にいるのに、「私にはわからない」と思っているのは、「ある」は自分が発見する対象としてもっと遠くに存在し、それを発見するのは釈迦のように特別な存在だけが発見できると思っているからでしょう。
私が他の誰とも違う特別な個人として存在していると思っているからでしょう。
「本当に私という特別な個人がいるのかどうか?」という疑問を持って自分を観察していれば、「ある」は誰にでも発見できます。
呼吸をするすき間に、思考と思考のすき間に「ある」は存在します。
すき間とは空間だとイメージしてみてください。
現れは空間に現れてきます。
いわば空間がすべての現れのベースなのです。
現れは瞬時に変化していきますが、何もない空間はずっとそのままです。
空間は現れがあろうがなかろうが常に存在しています。
空間には果てるところがありません。
個人の私と空間は重なっています。
私があってもなくても空間は存在していますが、そこには何もありません。
何もないところに花が咲いたりコーヒーが出てきたり、ビルが建ったりしています。
現れと空間は常に重なって同時に存在していますが、同じものではありません。
「ある」とは言わば空間のような存在なのです。
あなたや私と重なって常に存在しているのです。