「ただある」、それしかない。
この世界の本質は、目に見えるもの・耳に聞こえるもの・鼻に感じられる匂い・舌でとらえられる味・触った感じそして思考として浮かんでくる考えがそのままあるだけでそれ以外にはないのである。
近所の桜より吉野の桜が美しいなどというのは、思考で比較して考えているだけで、今見ている桜しかないのである。
桜は二つはないのである。
ワンと聞こえたらワンしかなく、美しいワンだとか大きすぎるワンというのも思考にすぎず、ワンは今聞こえたワン一つしかないのである。
しかし、私たちには桜を見たら今の桜と過去の桜を比較して、昔の桜のほうが見ごたえがあったとかどうのこうのとジャッジメントをするくせがある。
今目の前に見ているもの・耳に聞こえているもの・鼻に感じられる匂い・舌でとらえられる味・今触った感触・今浮かんだ考え以外のものを作って、今ただあるだけのものに手を加えていじくりまわして、今ただあるものとはほど遠いものに仕立て上げてしまう。
自分で仕立て上げた本質とは程遠いものに振り回されて四苦八苦している状態こそが、苦悩というものの正体なのである。
本質に触れるには、今ただあるものにつけ加えたああだこうだの考えの起こる以前の姿に立ち戻る訓練をする必要がある。
禅の修行である坐禅や、グーグル社が社員研修として行い効果のあったマインドフルネス瞑想とかがその訓練にあたる。
あれやこれやたくさんのものがあるように思われるのかもしれないが、それらは全て思考で創り上げた幻であって、本当は「ただある」、それしかないのである。