私たちの本質は「…」と表現するのが最も適切なのかもしれない。

「ただある」を別の言い方をすると、「今ここ」ということである。



常に「今ここ」で「ただある」だけなのである。



「10年前ニューヨークに住んでいた頃…」とか「明日海へ行く。」等という表現をするが、常に「今ここ」なので、本当のところ時間もなければ空間もないのである。



「10年前」も「ニューヨーク」も「住む」そして「昨日」も「海」も全て言葉であって、それらの言葉を使ってそういう場面を創っているにすぎず、本質は全て言葉以前の言葉のないところにあるのである。



「10年前ニューヨークに住んでいた頃」の前は「…」であり、「明日海へ行く」の前は「…」なので、言葉の前の本質は「…」である。



本質は、言葉になる前の名前のないものが「ただある」だけなので、最小限の言葉で「ただある」と言っているのである。



言葉がなくて「ただある」だけなので、実体はない。



実体はなくただある。



このことを般若心経では「色即是空 空即是色」と言っている。



10年前とか明日とか何時何分何秒等の時間も、ニューヨークとか海とかの空間も全て言葉で創っているので、それを全てに共通の最小限の言葉で表現すると「今ここ」ということになるのである。



したがって「今ここ」の「今」は時間ではなく、「ここ」は空間ではない。



本質は時空のないところに「ただある」のである。



私たち生命の本質を言葉を使わずに表現するなら、「…」と表現するのが最も適切なのかもしれない。



しかしそれだと何のことかわからないので、あれこれ言葉を使って説明しているのだけれど、言葉の壁によって本質からますます遠ざかっていくだけなのかもしれないという気もしながらブログを書いている。