この世には命の本質しかない。

ゴールデンウイークはどこへも行く計画がなかったので、お天気のいい日を選んで友人を誘いお弁当持参で神戸の街が一望できる近く(自宅から5分程度)の公園に行きました。



高台にある公園への入り口にあたる階段を上り始めた時、「見て見てきれいな藤の花」という興奮した友人の声が聞こえた。



言われた方向を見ると、山肌に自生している藤が実に見事な花を咲かせていた。



4日後再び二人で会った時、友人が「藤の花が目に入ってきた瞬間の感動は忘れられない」と言った。



その時思わず「それそれその藤の花が目に入った瞬間こそ、私と藤の花が一体の今ここだよ」と口が勝手にしゃべった。



藤の花が目に入った瞬間は、「藤」という言葉も「きれい」という言葉もなく、藤の花を見ている「私」もいない。



何もなくただあるだけの本質(空)から現れ(色)が生まれ出た瞬間であり、本質と現れが同時に存在する瞬間である。



現れは生まれ出るやいなやすぐに元の本質へと戻っていって、また新しい現れが生まれ出て、それが次から次へと繰り返される。



現れは現れては消え消えては現れと永遠に変化し続けているが、現れの母体でありスクリーンでもある本質は永遠に変わることなく現れと共に「ただある」。



現れは「藤の花」とか「きれい」とかの言葉で表現されるのであたかも実体があるようであるが、言葉での表現は後づけにすぎず表現した時はもうそれはないのだから本当は実体はないのであり、その実体のないものこそが言葉が生まれる前のただあるだけ(あるがまま)の本質なのである。




私達が生きていると思い込んでいる現れの世界は言葉で壁を作り「私」という主体と「私以外」の客体を分離させ実体らしきものを創っているだけなので、言葉がなくなれば実体はなくなりただあるだけの世界になる。



現れは夢であり幻であるというのはそういうことであり、仏陀はそれを「色即是空 空即是色」と表現したのであろう。



現れは常にただあるだけの本質と共にあるので、「ありながらない ないながらある」「あるけれどない ないけれどある」と言える。



私たち現れは「色即是空 空即是色」の色にすぎないので、常に「ありながらない ないながらある」ため、「私」と言葉で表現する前も言葉によって「私」と「私以外のもの」に分離した後も本質は何も変わっておらず、常に非二元(青空意識・悟り)なのである。



私という一個人は単なる現れにすぎないので閉じており、悟ることもなければ覚醒することもないのだけれど、その根源である本質は常に覚醒して開いている。



だからそのことに気付く(覚醒する)ことによって閉じていたハートが開き、非二元(青空意識・悟り)とダイレクトに繋がり非二元こそ真の私であると気付くことができる。



「私は既に悟っている」とはこういうことなのである。



この世には実にたくさんのものが存在しているかのように見えているが、本当のところ名前も何もない(実体がない)命の本質がただあるだけである。



命の本質しかないのである。