「任せる」−「井上義衍老師語録」より
何気なく「井上義衍老師語録」を開いたところ、「任せる」というタイトルの章が目に飛び込んできた。
この章の全文通して全く違和感なくスラスラと読めたので、今日はこの文章を紹介します。
「任せる。『任せる』ということは、自分のほうから、何かをすることではないのです。
(打掌して)『ポン』これが耳に任せたという状況です。『ポン』これは耳に任せているということです。音がするだけです。
聞くとか、特別何かをするような気配はない。耳という道具自体に任せるということは、このように音がしたから聞こえるだけです。六根(眼・耳・鼻・舌・身・意)という、この道具立て自体に全部任せてしまえばいいのです。
道具立てというのは、この身体の機能のことです。眼は、ものが見えるように出来ている。耳は、音が聞こえるように出来ている。鼻は、香りがわかるように出来ている。舌は、味がするように出来ている。意、つまり心はものが思えるように出来ている。
それを全部、それ自体の働きに任せておく。自分で、自分の好き嫌いで使うことをしないのです。
すべてが、その通りにあるだけです。それが修行の着眼点です。
今、”ある”。そのものによらなければ、そのものは絶対に分からない、という基本的な勉強の仕方を忘れているんじゃないですか?
自分自身というものを本当に知りたかったら、自分自身に向かう以外にない。古今東西の聖人たちが、必ず歩んできた道です。」
(「井上義衍老師語録 四 任せる」より)
私たちは何かをすると同時に私という点を打ち、私と対象に分けて「私が〜をしている」と思考する。
思考する前は私も対象もなくて、ただそのことが”ある”だけなのです。
「私が月を見る」の前は「月が眼に映っている」ことがただあるだけであり、「私が音楽を聞いている」の前は「音楽が耳に聞こえている」ことがただあるだけなのです。
この今ただ「ある」ものを頼りに自己の本質を探究していくのが禅の道なのです。
そのためには、私意識を外して「任せる」ということが大事なポイントになってくるのです。
力を入れてがんばって私が何かをするより、力を抜いてリラックスして私は何もせずただただ起こってくることにお任せするのが自分自身の本質を知る道だと義衍老師はおっしゃっているのです。