「ある」と「ない」は同時に重なっている。
先日井上老師の京都禅カフェに参加したことでかなり明瞭になったことがあるので、書いてみようと思います。
非二元のティチャーなどが「私がない」とか「何もない」とか「愛しかない」等々、「ない」という言葉で説明されることが多々ある。
しかしたくさんの「ある」ものの中で暮らしている私たちの多くは、「そんなこと言ったってあるじゃないか」と心の中で思う。
この「ある」と「ない」について、気付いたことを書いてみようと思う。
「ある」のは、六感(視覚・聴覚・味覚・嗅覚・触覚・思考)で捉えた今こここの瞬間に起こっていることだけであり、それには一切言葉で名前がついておらず」「ただある」だけ。
例えば、散歩をしている時カラスの鳴き声が聞こえたとする。
ここから言葉をなくすとどうなるか?
「…」が「ある」ということになる。
「…」は言葉がない状態なので、最低限の言葉で「ただある」としか言えない。
「…」は言葉がない状態なので、「ない」とも言える。
「ない」が「ある」=「ただある」。
「ただある」とは「ない」と「ある」が同時に重なっているということ。
「私がない」とはどういうことか?
「私」とは何かをしている主体に対してつけた名前なので、その名前をつける(思考の)前は、「…」で「ただある」だけで「ない」ということ。
「私」という名前をつける前の本質に戻れば、「私はない」のである。
「私」だけではなく、「あなた」も「けんちゃん」も「愛ちゃん」も「犬」も「猫」も「家」も「車」も「木」も「花」も名前のついているものは全て、名前をつける(思考の)前の本質に戻れば「ただある」だけで「ない」。
この世の全ての存在の本質は「ただある」だけで「ない」。
だから名前のついていない本質は、名前によって分けられていないため全ては一つなのである。
「思考」は100%言葉でできているので、「思考」で作った世界も「思考」の前の本質に戻れば、「ただある」だけで「ない」。
このブログも「ただある」だけで「ない」。
だから「本当は何もない」とは言えるのだが、瞬間瞬間の六感で捉えた今ここで起こっている現れは、すぐに変化して連続はしていないけれどその瞬間には「ある」ことはある。
この瞬間の「ある」を私たちは、連続していると思い名前をつけて分離させ現実だと思い込んでいるのである。
「ある」と「ない」は常に同時に重なっている。
色即是空 空即是色