悩み・苦しみについて

悩みや苦しみというのは当然のごとく現れである。



本質的に言えば、それはただあるだけでないのだが、それはどういうことなのか?



瞬間的な思考や感情としての悩みや苦しみは当然起こってくる。



起こってくるが連続してはいない。



例えば、北朝鮮のミサイル実験のニュースを聞いて、「日本が北朝鮮アメリカの戦争に巻き込まれたらどうしよう」と不安になったとする。



今ここの事実は、一瞬「北朝鮮がミサイル実験をしました」という情報が耳に入ってきただけであり、直接それを見たわけではない。



耳に入ってきて跡形もなく消えていくのである。



仮に直接それを見た場合も一瞬目に映って跡形もなく消えていく。



それなのに何故不安になるのか?



その情報が耳に入るやいなやそれに反応して、「日本が北朝鮮アメリカの戦争に巻き込まれたらどうしよう」という思考が起こり、その思考に反応して不安が起こる。



情報が入っくるやいなや跡形もなく消えていくという今ここの事実を観ずして、思考がどこにも存在しない未来を妄想して不安が起こっているにすぎない。



もちろんこういう妄想も不安も、今ここではそれが起こるやいなや跡形もなく消え去るのだが、その今ここの事実を観ることなくさらなる思考や感情を付け加えてどんどん増やしていく。



何が起こっても、起こったことが跡形もなく消えていくという今ここの事実としっかり向き合っていれば何の問題もなく大丈夫なのだが、今ここに起こっていることに対する思考・感情・想念を私のものだと思ったとたん、それは私の悩みや苦しみになってしまう。



「私」・「悩み」・「苦しみ」全て言葉で名前をつけている。



言葉で表現すればするほどそれは大きくなっていく。



そんなふうに悩みがどんどん大きくなっていったことに気付いたら、深呼吸をして一度思考・感情の連鎖を断ち切り言葉で表現する前の誰のものでもない、「ただあるだけ」で「何もない」本質に戻ってみるのがよい。



私が悩んでいるのではない。



悩みがただあるだけ。



「…」がただあるだけ。



私が苦しんでいるのではない。



苦しみがただあるだけ。



「…」がただあるだけ。



井上哲玄老師は自分だと思っている者は、私的な存在ではなく公の存在だとおっしゃっていた。



この世の現れの全ては公の存在である。



現れの全ての本質はあれこれという名前で分けられていない一つの公の(ただある)存在である。